大好きなエクセルに向かうとき、たったひとつだけ僕が気をつけること

[twitter:@81TJ] のエクセル本が素晴らしくて、僕が応援しなくたって沢山売れそうだけれども、それでも書きたくなったので徒然してみようと思う。



どこに行っても大抵あって、もちろん持っているひとも多くて、交換しやすいので「仕方なく」使っていたはずの道具は、無計画に増築を重ねた温泉旅館みたいに多層な機能で、だからこそ、どんなふうに使うのか、仕事の進め方から人柄みたいなものまで、つくられたファイルから透けてくる不思議な言葉でもある。実物を見るまで誰にも想像できないような、極端に個性的なシートさえ、どこの職場でも複数発見することができる。そのネ申エクセルが、現役でバリバリと業務をこなしている場合さえ少なくない。ああ、これは文化さ、エクセル。いつの間にか。思い切って言おう。僕はエクセルが好きだ。

  • 素朴につくる


これだけ。気をつけること。たまたま僕がこれまで、こんなふうに念頭に置いて仕事をする縁があっただけで、もちろんエクセル哲学なんて星の数より多いはずだが、もうすこし書き加えてみると、素朴といっても、何も考えずにスプレッドシートをこしらえる意味では勿論ない。そんなことをすれば、思考や試行の過程がそこら中にバラバラと散らかって、出来上がりは決して素朴にならない。そう、素朴へと近づくこと。そうした時間的変化を目指しているわけだが、方法論では語りきれない奥行きは、いつまでも探検を終わらせない。


エクセルそのものよりも、むしろ我々の日常を振り返ってみよう。例えば春は異動の季節だが、仕事で使っているスプレッドシートには「引き継ぎ」が発生する、その鏡の向こうでは、前任者の魔術にも似たパズルを解くチャレンジは終わらない。あるいは新しく発生する業務の中で、部分的に既存プロセスの一部を活用したくなる場面は少なくない。既存の業務の中で、部分的にプロセスの一部を刷新したくなる場面は少なくない。エクセルや仕事だけではない。遊びだって暮らしだって、我々は部分を検討し入れ替えながら、派生と淘汰を繰り返して変化を探る。「目的」のようなもの。「機能」のようなもの。僕らのワークもライフも、特徴的な部分を上手に切り分けて、ひとつひとつ見つめながら、より大きな全体を動かす。


だから僕は考えるわけです。このスプレッドシートで、何がしたいのか。何が必要で、何が不要で、どんなふうに組み立てるのか。そしてゆっくりと、1)データと、2)作業と、3)出力と、ファイルの構成とシートの構成について考える。置く場所、使い方、見栄えについて、考える。可能な限り素朴につくると、実はパッと見た目は冴えない。あどけなさ残るフレッシュな後輩が、そのファイルを初めて開いたとき、スゲーと目を輝かせることはおそらくない。作成者のデキる感じは、劇的には伝わらないかもしれない。いいじゃないか。何年も経った後で、全く別の場所に自分は移った後にも、かつての素朴が現役で仕事をしている話を耳にすることがある。とても嬉しい。あるいは、新たな素朴へ変身を遂げたと耳にすることがある。とても嬉しい。素朴の寿命は長く、後輩が先輩になる頃には、哲学の形で遺伝している。


僕が言おうとしていることが、伝わっているだろうか。まったくピンと来ないだろうか。素朴の力は、エクセルにとどまるものじゃない。たまたま僕は、エクセルを通じて体で覚えたわけだが、きっとあちこちの現場に、チャンスは転がっている。素朴は、どこにいっても通用する。すこしだけ違ったところの「UNIXという考え方」から、最初の5つを引用しよう。相似形が見えてくる。


UNIXという考え方―その設計思想と哲学

UNIXという考え方―その設計思想と哲学

  1. 小さいことはよいことだ
  2. プログラムには、たった一つの仕事をさせよう
  3. じゃんじゃん試作する
  4. 効率よりも移植可能性
  5. データはフラットなファイルに


北斗神拳みたいな、一子相伝の難解なファイルに、後継者が見つからないのは運命である。可能な限り素朴につくられたエクセルのファイル群は、それらが集まって、分散して、また競争して、分業して、多様で豊かな明日を切り拓く。変化こそ命をつくり出すのだ。いつものように、何の話かわからなくなってきたが、エクセルからだって、世界は見えたりするものだ。