貸しの生活

久々にジャケ買いというか、タイトル買いをしたのだが、どうしても金融屋の立場からツッコミを入れたくなってしまうのは、仕方のないことかもしれない。


借りの哲学 (atプラス叢書06)

借りの哲学 (atプラス叢書06)

《借り》というのは、経済や道徳のなかだけで捉えきれるようなものではない。そんな小さなものではなく、もっと大きなもの―人類が誕生したときから、存在している「基本的な状況」であり、「普遍的な現実」なのである。


《借り》というのは、人間関係を反映したものだ。人間関係は複雑である。だから、《借り》もまた複雑である。誰かからどのくらい《借り》を受けて、きちんと清算したかどうかなど、わかるものではない。だったら、《借り》は《借り》として受け入れ、世の中の役に立つかたちで返していけばよい。


金額や返済の責務が明確な《負債》から、人々を解放したところの貨幣が、実は中央銀行の負債であった点を見落としているのは愛嬌としても、どうしたって金融屋としては、反対側の立場を想起せざるを得ない。そう、《貸し》である。


例えば我々は日々働き、物やサービスを日々つくり出している。月末に給料として受け取るまでの間、それらは要するに、会社に貸している。そう考えるのが自然だ。給料として一万円札を受け取るとき、会社への貸しが、日銀への貸しに変わる。日銀への貸しは、あちこちで受け取ってもらえるからだ。そう考えるのが自然だ。パンを買うのに、その日銀への貸しを差し出す。すると僕から日銀への貸しは、パン屋から日銀への貸しに姿を変える。そう考えるのが自然だ。そんなふうに、僕らの《貸し》はグルグルと日常を回っている。輪廻のように。


おおらかな《貸し》だって、もちろんあちこちに存在している。先日飲みに行った際には気分がよかったので、若い奴に奢ってやった。必ずしも返ってこなくても、別に構わないさ。どこかで、いい仕事しろよ。どこかでまた、別のやつに奢ってやれよ。そんなふうに思う。回り回って、自分に返ってくるかもしれない。返ってこないかもしれない。どっちでもいいさ。そんな投資は、消費と区別がつきにくい。


FOLIO(フォリオ) vol.4

FOLIO(フォリオ) vol.4


さて、我々が政府に《貸し》ているカネについて、出ましたFOLIO第四号。地球上で誰より国債のことを知ってる匿名氏も交えて、本物の現場の連中が、財政破綻について普通に話す。ものすごいぜ。