誰がお金の量を決めているのか - 貨幣の負債性について

誰も決めていない。あるいは、それぞれの我々が決めている。例えば一万円札について、具体的に考えてみよう。どのくらいの一万円札を、あなたは財布の中に入れているだろうか。特に用事がないとき、あまり高額を持ち歩くのは不安なので、いつもより少なめにしているかもしれない。カードやスイカがあるので、まったく持たないかもしれない。金曜日にパーッと行くとき、あるいは大きな現金支払いが予期されているとき、いつもより多く一万円札を持ち歩くかもしれない。「いつも」持ち歩く紙幣の量は、習慣や使い方にも依るのだろう。そのすべての合計が、日銀券の発行残高である。そんなもの21世紀に、誰も制御することなど不可能なのは、我々は紙幣が多すぎると思えば、すぐにATMに向かうことができる。我々は紙幣が少なすぎると思えば、すぐにATMに向かうことができる。銀行預金と紙幣のバランスを調節するのに、他人の指図を受けたりしない。自分の便利で決める。では、誰が銀行預金の量を決めているのか。


誰も決めていない。あるいは、それぞれの我々が決めている。紙幣よりも更に、それぞれの我々によって方針は異なるだろう。とにかく積み上げられた預金残高を眺めるのが好きな者もいるかもしれない。一方で、ペイオフも気になるし、何か機会を逃しているような気もするので、株式やら投信やらを買いたくなる者もいるかもしれない。あるいは住宅ローンを抱えていれば、繰り上げ返済したくなる者だって少なくないだろう。もちろん逆に、例えば企業なら、さまざまな事情で、借金も抱えながら同時に預金も積み上げた両建てのような状態を好む場合もあるかもしれない。では、紙幣も預金も、株式も不動産も、ゴールドも設備投資も、すべて含めた「資産のようなもの」の量は、誰が決めているのか。


誰も決めていない。あるいは、それぞれの我々が決めている。かつて誰かが掘り当てた、身体を熱くする湯が湧いてくる温泉は、未来に向かって人々の疲れを癒す資産である。それらの権利は、あるいは掘り出すビジネスは、小口化され、それぞれの我々の資産となり、その評価は時間の経過とともに変化する。新たな温泉を探すプロセスにおいては、さまざまに貸借が発生する。我々は銀行に金を預け、銀行は企業に金を貸し、企業は金を借りて掘削の機械を購入する。その誰かが動くたび、またライバルが動くたび、間に新しい者が入るたび、また中抜きされるたび、資産や負債の合計は、増えたり減ったりする。紙幣も預金も、我々にとって資産で、同時に銀行にとって負債だが、それらを含めた貸借の大きさの全体は、もちろん金利に影響を受ける。金利がゼロなら、借りたまま放っておいても、あまり気にならない。