国債のようなもの

我々は政府に金を貸している。預金や保険、年金の形で「貯めている」金の大きな部分は、その先で国債に向かっているわけだ。国債を毎日取り扱うプロフェッショナルの方々と飲む機会を前に、頭の中を整理しようと、時間をかけて、うんうんうなって考えてみた。結果的には、国債の枠を超える絵になってしまったのだが、メモを残しておきたい。



二つの黒い縦線は、それぞれ政府のバランスと民間のバランスを表現する。民間といっても、あの会社もあれば、この個人だって存在するわけだが、えいとまとめて考えてしまおう。部分を切り出すことによって、大きな現実を眺めるための眼鏡を磨くのが、モデルの仕事である。


民間から金を借りた政府は、インフラをこしらえる。法律が整備され安心して取引できたり、おまわりさんが事件に立ち向かってくれたり、堤防が災害を防いだりしてくれるわけだ。そして民間では、政府に金を貸しつつ同時に、さまざまに生産する。食べるものをこしらえたり、住むところをこしらえたり、着るものをこしらえたりするわけだ。もちろん政府も民間も、外国から金を借りたり、外国に金を貸したり、することは普通だ。


すべてのアイテムは、未来に渡るフローを評価すると思っていただきたい。インフラが将来に生み出すフローと、インフラの上に乗った民間の投資が将来に生み出すフローと、切り分けることは本質的に不可能なわけだが、実行が困難だからといって、必ずしも考察することは難しくない。「国債のようなもの」は必然的に、明示的に取引される国債だけでなく、将来の行政サービスや社会保障を含むことになる。あるいは逆向きというか、「国債のようなもの」を小さくする方向だが、将来の税金や社会保険料を含むことになる。要するに「国債のようなもの」は、政府と民間との貸借のすべてを指す。


大事なポイントなのだが、それぞれ左右のバランスは常に一致している。便利なインフラが整備され、将来に向かって生み出す価値が大きくなる場合を考えよう。右側では「国債のようなもの」が膨れる。行政サービスや社会保障が厚くなっていたり、税金や社会保険料は軽減されていたり、するに違いない。便利なインフラは、あるいは民間が生産する力を膨らませる場合もあるだろう。いずれもΣ将来の消費を拡大させる。豊かに暮らすためには、政府も民間も、よい投資をすることが肝要だと、このモデルは言っているわけだ。


増税する分だけ社会保障に回すようなアクションは、「国債のようなもの」の大きさを変化させず、この絵を動かさない。覚えておきたい。我々が消費することができるのは、我々が生み出すものだけだ。