年金解散

もちろん公的年金の話だが、そんなことできるわけがないと考えていたのは、単に年金の周囲で、何も考えずに仕事をしていた時間が長かっただけなのかもしれない。先日突然自分の口から、財政の話をしている中で、こんな単語が出てきて驚いたのだが、それから数日考えて、ちっとも困難でないばかりか、まさに年金解散こそが、取り組むべき課題だと思うようになった。年金は簡単でない。なぜなら現在だけでなく、ずっと将来に渡って、自分の人生だけでなく世代を跨いで続く話でもあるからだ。もちろん考えてみると、例えば道路やダムでも、将来に渡って使い続けるわけだが、しかし年金は露骨に明示的に、遠い未来について、しかも金額について取り扱う。そして我々は、そうした簡単でない問題について考えようとするとき、しばしば用語の罠に嵌ってしまう。なんちゃら方式だとか、なんちゃら率のことだ。


「積立方式に変更しろ」と叫ぶ声が、虚しい響きにしか聞こえないのは、年金の財政方式を変更したところで、状況は劇的には改善しない。すぐに「積み立て不足」が埋まるわけでもなく、将来いくら年金が払われるのか、保険料はいくらになるのか、いくら増税されるのか、不安は消えないばかりか、場合によっては増えるかもしれない。どれだけ積み立てる「べき」かで揉め、その土台にある前提としてのなんちゃら率で揉め、決算を迎えるたびに、実績の乖離でまた揉めるだろう。そうした不透明をぶっ飛ばすために進みたいと思われるのは、いつもの道だ。「わからない」を切り離しバラバラに切り刻んでやること。文字通り、年金解散である。例によって具体的にいこう。

              政   府
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将来の保険料や税 | 将来の年金支払い
  積   立   金   |


計上されているか否かにかかわらず、政府の負債としての「将来の年金支払い」は、資産としての「将来の保険料や税」と「積立金」との合計と、常にバランスしている。なんだか難しそうにも聞こえるが、要するに将来に年金を払い続けるためには、積立金が稼ぎ出せない分は、保険料や税を取るしかないという話だ。ここでは年金の財政方式は、「将来の保険料や税」と「積立金」との、大きさのバランスの話になる。つまり賦課方式なら「積立金」は非常に小さく、「将来の保険料や税」が資産側の大部分を占める。他方で巨大な「積立金」の運用収益だけで年金支払いの殆どを賄う極端が、もうひとつの端っこにある。中庸がどこにあるのか、よくわからないわけだが、どんぶり勘定である以上、どんなに調整しても結局のところ、意図的か否かにかかわらず、多少なりとも年金が再分配の役割を果たしてしまうことは避けられない。残念ながら、そのための政治の応酬も消えないだろう。だったらさ、もう解散しようよ。「将来の年金」のような、政府にとって決まっていなくて不安な負債は、家計にとって決まっていなくて不安な資産は、エイヤと決めて、全部払い出しちゃおうよ。こうするんだ。

              政   府                              銀   行                              家   計
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 将 来 の 税 収  |     国    債          国    債     |  年 金 支 払 い    年 金 受 取 り  |  生 活 費 な ど
                 |                                    |                                    |


もちろん一度だけ、タフな金額の交渉が必要だが、これから払うはずだった年金の現在価値分をすべて、それぞれの家計の年寄りに払い出してしまう。そんな巨額を箪笥や金庫に入れておいては泥棒や災害が不安なので、金融機関に預けて、よくある個人年金と同じように、長生きリスクも設計に入れたうえで、各月の年金として実際には受け取るわけだ。その原資として、金融機関は国債を多く保有することになる。政府から見れば、年金を解散して巨額を払い出すのに、(積立金に加えて)国債を発行して資金調達する形だ。


これから保険料を払い始める若者の年金に、政府は基本的に関与しない。彼らは金融機関へ、コツコツと将来の自分自身のために、非課税の「貯金」を毎月積み立てる。そう、確定拠出だ。運用先の多くは国債かもしれないが、もちろん総務部が何と言おうと、財政リスクから逃避する行動だって俺の自由だし、同僚が何と言おうと、未来を夢見て株式へと投資する行動だって君の自由だ。ここでは運用のリスクはGPIF*1から切り離され、各個人に責任と一緒に手渡される。それがいい。僕らは自分自身で、どんなリスクを負担するのかを、選び監視するのだ。オマケのようになって恐縮だが、これまで年金保険料を払ってきた現在も毎日働く現役の方々は、両者を重ね合わせた形をイメージしていただきたい。年金解散に際しては、多少の分け前を受け取り、未来に向かっては自分で積み立てる。


年金解散に際して、政府の借金は一見膨らんでしまうようにも見えるが、実際には現在計上されていない「将来の年金支払い」が、国債に姿を変えて可視化されるだけの話だ。しかしバット、金額は確定している。なんて素敵なんだろう。だって投機筋にとってみれば、社会保障の将来を理由に国債を売り浴びせることは、難しくなったわけだ。もちろん、僕らのそれぞれが財政について判断して、売り浴びせるかもしれない。なんて素敵なんだろう。