最後の貸し手

「ECBは財政ファイナンスに与しない」というメッセージ*1と受け取った北京ダックのような市場は、なんだか昨晩からガァガァと騒がしいが、要するにドラギは、決済を守ることが中銀の使命だと胸を張ったように自分には思われた。富はマネーから生まれてこない。


いまから100年以上も前に書かれた「ロンバード街*2」で、バジョットは「最後の貸し手」機能とその二つの原則について述べ、中央銀行が恐慌時にとるべき行動について具体的に描いた。いつの時代も、マネーを刷って(俺に)寄こせと叫ぶ連中は絶えないものだが、クリックで預金を動かすことのできなかった時代の金字塔を、すこし覗いてみよう。

第一に、これらの貸付は非常に高い金利でのみ実施すべきである。高金利の貸付は、過度に臆病になっている人々に対しては重い罰金として作用するため、貸付を必要としない人々からの融資申し込みの殺到を防ぐことができる。貸付金利は恐慌の初期のうちに引き上げ、この"罰金"が早くから支払われるようにする。充分な対価を支払わないまま、無益な用心のために資金を借り入れる者が出ないようにして、銀行支払い準備を可能なかぎり保護するのである。


二文目の前半はわかりにくいが、原文では unreasonable timidity に対して heavy fine として機能するとあり、「ただビビって、とりあえず借りておこうという連中には重い負担」くらいの訳が適切だろう。「銀行支払い準備を可能なかぎり保護する」のは、素直に読めば、貸付の余地を残しておきたい意図に思われる。

第二に、この高金利の貸付は、あらゆる優良な担保にもとづき、また大衆の希望にすべて応じられる規模で実施すべきである。その理由は明白だ。貸付の目的は不安の抑制であるため、不安を生じさせるようなことはすべきではない。しかし、優良な担保を提供できる人への貸付を拒否すれば、不安が発生する。不安が蔓延する時期には、この拒否の知らせは金融市場全体にあっという間に広まる。このニュースは、発信者ははっきりしなくても、ものの三〇分で四方八方へ広まり、いたるところで不安が強まる。


ここで彼の意図は、より明確になる。要するに、不安が不安を呼ぶパニックを防げというのだ。そこでケチるなと。「最後の貸し手」機能を語る文脈から、しばしば省かれる「優良な担保を提供できる人への」という限定は印象的だ。そして後に、こう続く。

イングランド銀行が最終的に損失をこうむるような貸付をする必要はまったくない。商業界における悪質な取引の数は、取引全体のごくわずかな割合を占めるにすぎない。恐慌期に、最終的な準備を持つ銀行または諸銀行が、質の悪い手形や証券を拒否しても、恐慌が真に悪化することはない。「不健全」な人々は脆弱な少数派であり、その不健全性が見破られることを恐れて、怯えていると見られることすら恐れている。大多数の保護されるべき人々は「健全」であり、提供可能な優良な担保を持っている。イングランド銀行が、平常時に優良な担保とみなされるもの、つまり一般に担保化され容易に換金可能なものに対して、自由に貸し付けることが知れ渡れば、支払い能力のある商人や銀行の不安は消えるだろう。しかし、本当に優良で、通常なら換金可能な担保が、イングランド銀行に拒否されることがあれば、不安は緩和されず、他の貸付はその目的を達成できなくなり、恐慌はますます悪化する。


どうも現在の我々とは、随分と文脈が違うようには思われないだろうか。率直な話、市場で売り浴びせられている欧州の「多数派」が本当に「健全」なのか、少なくとも自分には確証がない。バジョットは、健全であるにもかかわらず、人々の不安がパニックを引き起こすのなら、全力でなぎ倒せと、要するに資金繰りを助けろと言っているのだ。がしかし、債務超過に陥っている政府やら金融機関にカネをやれとは、まったく言っていない。そして「流動性」はいま、世界中に溢れている。


問題は、おそらく別のところにある。21世紀だってのに、健全かどうか、よく見えないのだ。

*1:http://www.ecb.int/press/pr/date/2011/html/pr111208.en.html

*2:

ロンバード街 金融市場の解説 (日経BPクラシックス)

ロンバード街 金融市場の解説 (日経BPクラシックス)