中央銀行の信用リスク - 通貨の信認はどのように失われるか

地震と、津波と、原発のことが、頭に絡みついている。NHKばかりを目が追ってしまい、本も読めなければ、それ以外のニュースすら、なかなか自分の中に入ってこない。25世紀のエネルギーとビジネスと行政をリスクの言葉で考え、しかしあまりにも難しくて、さっぱりわからない。もちろん、決してネガティブなこととは思っていないが、すこし手前にストレッチしてみようと思った。復興の財源として発行する国債を、日銀が引き受けろと主張する連中が出てきているようだが、そのあたりに触れてみたい。


あらゆる貸借には、信用リスクとプレミアムがついて回らざるを得ない。貸した金は、返ってこないかもしれないし、だから多めに返してもらわなければ割に合わない。一宿一飯の恩義は大きく、情けは人の為ではない。国債とは政府の借金のことだが、もちろん信用リスク分は金利に上乗せされる。ある種の教科書の中には、政府による借金は無リスクとして扱う例もあるが、要するに議論の簡単のためだ。いくら税金を取ることができるからといって、21世紀に住む納税者は移民することも可能だ。「(部分的に)返ってこないかもしれない」と思う分も含めて、その金利に納得したときに、投資家は国債を購入する。そして現在、その金利はとても低い。将来に渡って短期金利は低水準が続くと予想され、また同時に、日本政府は借金をちゃんと返すだろうと、投資家に信用されているのだ。


一般に、貸した金が何に使われているのか、というのが貸借における信用の主なポイントになってくる。国債の場合は、実際のところ何に使われているのか、よく見えない*1にもかかわらず、なんとなく信用されている現在の状況は、気持ち悪いといえば気持ち悪いが、とりあえず国債の値段は高い。さて、そんな中で日銀が政府に金を貸せという主張を見かける。これは一体どういう意味なのだろうか。これまで通り、普通に皆に借りればいいじゃないかと思うのだが、おそらく自分じゃなく、他の誰でもなく、日銀が政府に金を貸せば、誰に迷惑をかけることもなく、皆が幸せになれるという誤解があるのではないかという気がしてならない。もちろん、そんなものは誤解に過ぎない。


ある種の教科書どころか、ほとんど誰も、中央銀行の信用リスクについて言及する者はいない。が、先の信用リスクとプレミアムに、例外は存在しない。日銀が政府に貸した金が、ロクなことに使われず浪費され、返ってこないかもしれないと思われれば、こんどは貸し手である日銀の信用に影響を与える。その日銀に貸している金が、返ってこないかもしれないと思われるのだ。さて日銀には誰が金を貸しているか、御存知だろうか。大きく分けてふたり、当座預金を持つ銀行と、それから我々紙幣の利用者である。


問題は紙幣*2だ。我々は紙幣に利息を要求することができない。機能と法律の問題だが、日銀を疑っていたとしても、紙幣の形で金を貸すとき、多めに返してもらわなければ割に合わないからといって、そう要求することはできない。ものを売った対価として一万円札*3を受け取り、長く保管したところで、いつまでも一万円分の購買力しか持たない。その信用は疑わしいにもかかわらずだ。仕方がないので、ものを売るときに、すこし多めに一万円札をもらっておく他に、自衛の手段はない。中央銀行の信用リスクは、我々の生活の中では、このような形で表現される。信用インフレと円安を、「通貨の信認が毀損される」と呼ぶのだ。


不謹慎は承知の上だが、放射能の危険を皆が疑うとき、周辺不動産の取引は円滑には進まない。取引の対象としての土地の価値が疑われるとき、合意をとりまとめるのは大変だ。あらゆる取引の媒介であるところの紙幣が、皆の疑いに晒されるとき、我々の経済はギクシャクしたものになってしまう。紙幣の信用を高く保つことは大切だと、世界中の失敗の歴史が教え、政府とは独立した中央銀行の設立が発明された。実際のところ、日銀の経営は磐石だ。最近では「包括緩和」で妙な資産を抱えてはいるものの、過剰に保守的に負債計上*4していることもあって、債務超過に陥る危険は小さいと言っていいだろう。だからといって、「国債を引き受けさせる」と政府が言明すれば、それは、そもそもの中央銀行の設立趣意に沿わないことは明らかだ。このとき長期金利には上昇圧力が働く。政府は自らを、怪しいと宣言しているようなものだからだ。

*1:id:equilibrista:20110130:p1

*2:当座預金には、最近利息が付くようになった

*3:借用証みたいなものだ

*4:震災でも紙幣は失われたはずだ