日銀不要論

先週の土曜日に日本金融学会で行われた、日銀の白川総裁による「通貨、国債中央銀行 ―信認の相互依存性―」と題された講演の全文が、ウェブサイトに掲載された。大変に興味深い内容なので、是非一読されたい。かねてから中央銀行など不要だと、ややトンデモ気味の理論を、自分は振り回してきたわけだが、この最高にキレた*1、いやキレる白川さんの議論を土台に、しかしその骨格を提示してみたいと思う。白川さん、アンタちょっと変なこと言ってるよ。


【講演】白川総裁「通貨、国債中央銀行」(日本金融学会):日本銀行 Bank of Japan
http://www.boj.or.jp/announcements/press/koen_2011/ko110530a.htm

一方、中央銀行の世界に目を転じると、ここでも政府の信認を巡る論点は無関係ではありません。リーマン破綻後、わが国も含め先進国の中央銀行は非伝統的政策を採用しましたが、この政策は流動性供給という純粋な金融政策ではなく、多かれ少なかれ、準財政政策的な要素を帯びています。それだけに、中央銀行は金融政策としてどこまでの役割を担うべきか、すなわち、政府と中央銀行の関係、あるいは、金融政策と財政政策との関係は大きな論点になっています。


今日の論点も、ここからスタートする。白川さんは自ら、流動性供給こそが「純粋な金融政策」である、あるいはその代表選手であると主張しているように読めるが、まずこの点に全面的に同意したい。しかしながら、そう考えると、彼の以降の議論はどうしても、矛盾を孕んだものにならざるを得ない。

ところで、通貨も国債もそれ自体は債務証書に過ぎません。言うまでもなく、債務者は、中央銀行通貨は中央銀行、銀行預金は民間銀行、国債は政府です。いずれも素材として価値を有している訳ではないにもかかわらず、価値あるものとして認められ、その機能を発揮しうるのは、究極的には、通貨や国債保有者がその発行主体を信認しているからです。勿論、信認の重要性は金融論で最も強調されていることのひとつであり、新しい論点ではありません。政府も中央銀行も民間銀行もいずれも信認を得るために、最大限の努力をしています。政府の場合は、中長期的な財政バランス維持の努力がこれに当たります。中央銀行について言うと、金融政策や最後の貸し手、金融監督等を通じて、物価の安定や金融システムの安定を図ることです。民間銀行の場合は、信用仲介や決済サービスを提供するうえで、資本基盤の維持や様々なリスク管理に努めることです。政府や中央銀行、民間銀行は、こうしたかたちで信認維持に努力しています。


僕の見解を示そう。政府の信用は、その財務によって決まる。中央銀行の信用は、その財務によって決まる。民間銀行の信用は、その財務によって決まる。馬鹿みたいだが、誰であれ、信用は財務によって決まると思うわけだ。もちろん好きとか愛してるとか仕事ができるとか全てを預けるとか、そういう話じゃない。「金を貸せるのか」という意味での信用を、ここでは問題にしている。そもそも金の話なのだから、当たり前だ。で、彼の言う「財政バランス維持の努力」は、要するに政府の財務のことだし、彼の言う「資本基盤の維持や様々なリスク管理に努めること」も、要するに民間銀行の財務のことだ。しかしどうだろう、「物価の安定や金融システムの安定を図ること」は明らかに、日銀の財務のことじゃない。物価も金融システムも、だって日銀のバランスシートには載っていない。それぞれの役者の「信認」について彼が主張する中で、僕の眼鏡には、彼の率いる中銀の部分だけが、ひどく素っ頓狂に見える。意図的に、何かを混同してはいないか。

このように、中央銀行は経済や金融の安定を維持するために積極的に行動しましたが、積極的な行動をとることが出来る大きな前提条件は、中央銀行に対する信認が維持されていることです。このことの意味を、中央銀行のバランスシートの拡大を例にとって説明します。金融システム不安時には流動性に対する需要が増加しますし、短期金利も極めて低い水準にあり中央銀行預金を保有する機会費用も無視できることから、量が拡大しても物価上昇率が上がる訳ではありません。実際、日本でも米国でも中央銀行当座預金やマネタリーベースが著しく増加しても、物価上昇率は上がっていません。中央銀行にとって重要なことは、将来経済環境が変化し金利引き上げの必要があると判断された時に、必要な行動を速やかにとることができるかということです。「何らかの理由」によって中央銀行は迅速な行動がとれないだろうと国民や市場参加者が判断するようになると、供給されている通貨量が極めて多くなっているだけに、その段階で、激しいインフレにつながることになります。「何らかの理由」としては、様々なことが考えられます。例えば、民間金融機関の保有する国債のキャピタル・ロスや政府の発行する国債金利上昇に対する懸念が金利引上げの反対論の論拠になるかもしれません。そうした反対論はいつの時代にも存在しますが、国債の発行残高が多いほど、また、低金利が長く続くほど、そうした反対論は強くなります。


中央銀行に対する信認」は、この前段でいくつかの実例*2が挙げられている「積極的な行動」をとるための、大きな前提条件だと彼は言う。そのとおりなのだろうが、そもそもなぜ、「純粋な金融政策」としての流動性供給とは大きくかけ離れたアクションを指向するのか。当たり前のことだが、別に積極的な行動をとらないとしても、「激しいインフレ」を避けるためには、その信用が失われてよいことにはならないではないか。
中央銀行の財務にとって一般に、金利引き上げが意味を持つのは、金利収入増をもたらすからだ。一方で、既に大量に長期債を保有する日銀にとって、財政への懸念から長期金利が上昇するとき、自らの信用のために、より早期に求められるアクションは明らかに、長期債の売却だ。僕が何が言いたいか、伝わっているだろうか。今後の財政悪化懸念に際して、日銀が自らの財務を健全に保とうとする必要があるとすれば、繰り返すが、真っ先にすべきは長期債を売ること、つまりその「積極的な行動」の逆向きなわけだ。日銀の信認を脅かす可能性をつくり出しているのは、他ならない、日銀自身なのだ。なんという矛盾。

いつの時代も将来は不確実性に満ちていますが、国民や市場参加者がかなり長い先の将来に関して予想を形成する場合、相反する2つの傾向があるように思います。ひとつは漠然とこれまでのトレンドが続くと考える傾向です。日本の現実に即して言うと、長期国債金利は長期間低位で安定的に推移してきたので、今後もこうした状態が続くだろうと考える傾向です。もうひとつは、一旦、何らかのきっかけで変化が起き始めた時に、過去に生じた大きな出来事の連想から急激な変化が起きてしまうだろうと考える傾向です。再び日本の現実に即して言うと、財政赤字の拡大や日本銀行の独立性が尊重されていないと感じられる出来事が起こると、最終的に激しいインフレが生じるだろうと考える傾向が生まれます。この両方の相反する傾向がどの時点でどのように変化するかは、なかなか事前には予想がつきません。ただし、はっきりしていることは、予想は非連続的に変化するということです。それだけに、政策当局の行動原理は明確でなければなりません。


まさにそうして、漠然と国債は買われてきた。民間銀行によって、そして日銀自身によってもだ。だから国債の値段は、いまとても高い。その帰結として、当然のことながら、何らかのきっかけで政府の信用が傷つくとき、「非連続的に」日本政府に金は貸せないと皆が判断するとき、いつまでも日銀が貸し続けていれば、自らの信用は損なわれる。要するに先の矛盾は、程度問題*3として行われてきた日銀の国債購入プログラムを誤魔化す文脈で、必然的に生まれた。中央銀行の行動原理は、いまよりも明確でなければならない。少なくとも自分には、論理から、そう思える。具体的には、自身の信用リスクを最小化することだ。行動としては、国債を含む、すべてのリスク資産を売却し、短期債に乗り換える*4ことだ。なぜなら、負債としての紙幣のデュレーションはゼロ*5だからだ。
もちろん、そんなメカニカルなアクションに、難しい会議や組織は必要ない。紙幣の発行残高分だけ、短期債を買う簡単なお仕事。金利だって自動的に*6決まる。そうすることが、日銀の信認を、そして我々が利用する紙幣の利便性を最大化させる。老婆心ながら付け加えれば、決済やら金融システムやらといった仕事に「独立性」は不要なので、それらは政府に移管すればよい。25世紀に日銀は不要である。そう思いませんか、白川さん?

*1:http://www.youtube.com/watch?v=AyiQDKJrLtE

*2:要するに国債やリスク資産の買い入れだ

*3:銀行券ルールのことだ

*4:現物を持ったままリスクだけヘッジしてもよい

*5:コア預金?冗談やめてよ

*6:テイラーじゃない、需給だ