マネーのない世界

昨秋にWileyから再版されたブラックの書籍*1から、第一章に収録されている表題の論文のうち、「支払手段の進化」について書かれた部分を、抜粋し訳して*2みたい。余計な解説をつけたくなる気持ちをグッと抑えて、さっさと進めよう。どう考えても、このままの方が凄みが感じられると思う。1970年に発表された当時は、あまり反響がなかったそうです。

個人所有ビジネスと、商品による支払いの世界

最もシンプルな世界を考えよう。ここには金融市場は存在しない。あらゆるビジネスは個人によって所有されていて、売買されない。すべての取引は物々交換によって行われるので、高コストにならざるを得ない。あるいは、小さくて持ち運び可能で、時間が経ってもあまり価値が変わらないような商品があれば、支払手段として使うこともできるかもしれない。しかし、いずれにせよ実物資産の物理的な交換を伴うとすれば、とても面倒だ。しかもその商品は、そもそも別の用途で用いられるものであったはずで、取引のために転用するとすれば、それは資源の無駄になってしまう。

株式会社と、ポートフォリオによる支払いの世界

金融市場を導入することよって、物々交換のコストを消してしまうことが可能だ。例えば、株式を導入しよう。個人が所有するビジネスの一部を、株式として売り、常に市場で取引されている状態を考えるのだ。このとき、株式は支払手段となり得る。どの銘柄を用いてもよいが、何らかの標準的なポートフォリオを使うのが、実用としては便利だろう。
買おうとしている物の価値も、そして支払う株式の価値も、もちろん我々は同じ物差しで測る。物の価値は短期間に大きく変わることはないだろうが、一方で、株式ポートフォリオの価値は時々刻々と変化する。ということは、つまり株式ポートフォリオで測った物の価格は、常に変化してしまう。これは、あまり便利でない。支払いのために、いつも株式の価値を気にしていなければならないからだ。もちろん支払手段としては、このシステムは何の問題もない。あたかもETFのように、通貨は発行される。若干の問題があるとすれば、支払いの際には、その価値を把握している必要があることだ。物の価値を、ETFの価値で割り算するために。

互いに貸借を行い、借用証で支払う世界

株式ポートフォリオは、支払手段としてはまったく問題ないのだが、しかし一方で、その価値は常に変動していて、把握しにくいという欠点があった。とすれば、貸借を導入したくなる。富の大きさも表現しやすくなるはずだ。同時に新たな支払手段が発生し、それは株式の欠点を克服する。何よりも第一に、そのことでリスクを移転することができるようになる。価値が毎日変わってしまう株式ポートフォリオを持つよりも、固定金利で誰かに貸し付ける方が、魅力的だと思う者もいるだろう。また、資金を借り入れて、株式を買いたいと思う者もいるかもしれない。元々貸し手の持っていた株式リスクの一部を引き受けることで、期待リターンを高めることができるからだ。
また第二に、貸借を導入すれば、将来に稼ぎ出す収入を、今借りて使うことができるようになり、反対側で貸し手は、稼いだ収入を今使わずに、将来に回すこともできるようになる。
ビジネスにかかる貸借は、そのオーナー同士による貸借と思えば、何も新しいことはない。理由が何であれ、とにかく借り手は、欲しい資産と交換に借用証を発行し、貸し手に渡す。つまり最初の貸し手は、ここでは単に売り手だ。そして発行された借用証は、以降どこでも、支払手段として用いることができるようになる。これが便利なのは、(借用が短期ならば)株式ほどには価値が変動しないことだ。一方で、約束の満期が来ても、本当に返されるかどうか確実でない面倒がある。倒産のリスクは、常に存在している。また、沢山の借用証を同時に管理するのも面倒だ。満期が訪れるたび、他の借用証や同価値の株式に交換されなければならないからだ。

保証つき借用証で支払う世界

倒産リスクの問題を上手に取り扱うべく、借用証に対して保証を行う「銀行」を導入したくなる。この銀行は、預金を集めず、貸付も行わない。単にそれぞれの借り手を監視し、もし倒産したら代わりに支払うのだ。見返りには、事務コストと、倒産リスクに応じた報酬を受け取る。したがって借用証は、借り手が実際に払うよりも小さな金利しか生まなくなる。差額は銀行が受け取るのだ。
もちろん銀行は、その保証料に関して、コスト競争にさらされている。また借用証の保有者に対しては、保証のための財務の健全性に関する評判を気にしなければならない。政府はおそらく、銀行に対して、例えば保証総額に対して一定の比率で資本を積ませることで、その支払い能力を示す助けができるだろう。それ以外には、政府による銀行規制は特に必要ない。
あらゆる支払いは、保証された借用証によって行われる。これは、低コストで価値の変動も小さく、とても便利な支払手段だ。とはいえ若干の不便も残っている。というのは、日々の利息を処理する必要があるのだ。また借用証には様々な種類が存在し、状況によって好まれるものは異なるはずだが、それらをすべて管理するのも面倒だ。多くをカバンに入れて持ち歩こうとすれば、泥棒にチャンスを与えてしまう。登録制度によって管理すればよいかもしれないが、コストがかかってしまう。

銀行の口座間決済の世界

これらの問題を解決するために、銀行にはユニークな方法で、支払いメカニズムに参入してもらおう。個々の借用証は、一時的な支払いにのみ用い、後で消し去ってしまうのだ。皆が銀行に口座を持ち、貸し手には預金を、借り手には貸付を割り当てる。預金には利息がつき、貸付からは利息を取る。支払いを行う際には、皆が借用証を発行するが、それは小切手の形でも、クレジットカードの形でも、また電子マネーの形でもよい。決済では、売り手の預金は増やされ、買い手の預金を減らされる。もちろん同時に、買い手の銀行から、売り手の銀行に預金を移転する。このシステムは支払手段として、便利で安全で低コストだ。


上記の5つの世界のどれも、マネーの量を明確には定義できない。個人所有ビジネスと商品による支払いの世界は、マネーの量の概念に最も近づくことができそうだが、それでも商品は、別の用途にも使えるはずで、いつマネーとして数えられ、いつ本来の用途として捉えられるのか、区別する手段は明らかでない。そして金融市場の概念と、無形財産による支払いを導入した途端に、「マネーの量」は途端にその意味を失ってしまう。
上記の5つの世界のどれにも、中央銀行の役割は存在しない。実体経済に対する金融セクターの唯一の役割は、より効率的な支払手段を確立しコストを下げ、用いられていたリソースを別の用途へと向けることだ。上記の5つの世界のどれにも、制御不可能なハイパーインフレーションを生むメカニズムは存在しない。なぜなら、どの世界にも中央銀行は存在しない。


ここではブラックは、貨幣数量説も、流動性選好説も、中央銀行が総需要に働きかけることができると考えるのも、単に不適切だと指摘する。僕には、その40年も前に提示された世界が、近づきつつあるように感じられる。おそらくマネーなど、そもそも存在しない。我々が抱えているのは、取引しているのは、リスクなのだ。あらゆる金融政策は、壮大な非効率だ。なぜなら、需要と供給が一致する金利はひとつしかない。

*1:

Business Cycles and Equilibrium

Business Cycles and Equilibrium

*2:意訳です