社会、経済、競争的な通貨市場

しばらく前の総裁講演だが、こんな中銀総裁は今後、現れることはないだろうと確信させる、凄いフレーズが満載のマスターピースだ。


【講演】白川総裁「社会、経済、中央銀行」(Foreign Policy Association(ニューヨーク)):日本銀行 Bank of Japan
http://www.boj.or.jp/announcements/press/koen_2012/ko120419a.htm/


実はその後すぐに、この記事を書き始めてみたものの、どうにも上手にまとめられず、途中で放り出してしまった。鮮烈な講演の内容の、すべてに対して適切にコメントすることは、自分の力を超えていると感じざるを得なかったからだ。半年経って諦めの気持ちが畏怖をオーバーレイし、そして誰も振り返らなくなった今、遠慮なく部分的に、1コマだけ切り取って書こうと思う。いつもの内容だ。未来に向かって、中央銀行が「特別な銀行」である必要は全くない。そして特別でない銀行に対しては、その財務リスクを評価する仕組みを、我々は持つ必要がある。

中央銀行の重要かつ伝統的な役割は金融機関に対する「最後の貸し手」であるが、昨年夏以降は、政府に対する「最後の貸し手」という、それまで聞いたこともなかった新たな概念を使って、中央銀行の資金供給の拡大を求める声が強まった。


政府に対する「最後の貸し手」という概念は、実はちっとも新しくないと思うのは、要するに中央銀行の「独立性」と表裏の関係にあるからだ。そもそも独立した機関としての中央銀行は、政府にじゃんじゃん金を貸さないために設立された。そうした歴史を振り返れば、いえ圧力に負けたわけじゃないんですと、そこには社会的な要請とコンセンサスがあるんですという、中銀の苦しい言い訳にも聞こえてこないだろうか。そもそも彼らが守りたかったものは何か。「公僕」としての彼らは、いま何をすべきなのか。

一般に、財政の持続可能性への信認が喪失し、その回復努力がなされなければ、帳尻が合わなくなる。その場合、論理的に考えて起こり得るシナリオはインフレか国債のデフォルトである。いずれの場合も、中央銀行の目的とする物価の安定や金融システムの安定を傷付けることを通じて、経済活動や国民生活に大きな悪影響を与える。


インフレか国債のデフォルトであると、両者の関係を「または」で明示しているところは、大切なポイントだ。これらは一般に混同されがちだが、前者は中銀の財務にかかる信用の毀損に、後者は政府の財務にかかる信用の毀損に起因する。より直接的に生活を脅かすのは悪い意味でのインフレーションで、なぜなら消費者としての我々が受け取った給料さえ、時々刻々と購買力を失ってしまう。政府が日銀に国債を買わせることで前者が後者を飲み込もうとする最悪の状況から我々を守るために、中央銀行の「独立性」は存在している。

民主主義社会において、独立した中央銀行が強制通用力のある通貨を無制限に発行できる権限を与えられているのは、中央銀行は財政政策の領域には踏み込まないという理解が共有されていたからである。


だとすれば言い換えれば、いま政府に対する「最後の貸し手」になろうとするなら、デフォルトが視野にチラつく国債を引き受ける「財政政策の領域」に踏み込むのなら、発行する通貨から「強制通用力」を取り払う方向へと向かうのが筋ではないか。売上代金や給料の受け手としての我々は、放漫な財政にカツアゲされる日本銀行の発行券を拒否し、イザというときには世界中どこへでも出ていくトヨタの発行するカローラ券を代わりに要求できる状況を、こしらえてもよいのではないか。どちらを日常的に使うか、我々が選ぶ。

中央銀行の政策は競争的な市場経済を前提にしている。そうした市場経済への信頼感は、何らかの公平感が損なわれると、失われていく。


中央銀行が、その競争的な市場経済の外部にいることができると考えるのは、甘い幻想に過ぎない。少なくとも、このマスターピースの書き手としての総裁は、気づいているはずだ。例えば具体的には、あなたたちは電子マネーを恐れている。利息もつかず、まだまだ不便でスムーズな授受や送金すらできない、がんじがらめの縦割り行政ルールに縛られた、ちっぽけなマネーもどきを。日銀券と対比するとき、公平感など微塵も覚えられない決済手段を。マネーをリスクから解放する圧力から、我々は逃げられない。

理想的な世界において、もし、なぜある人が今朝、エスプレッソでなくラテを飲むことに決めたのかを理解し、これを理論モデル化することができるのであれば、経済の自動安定化装置をデザインすることも可能となり、中央銀行も経済史の中の1コマに過ぎなくなるだろう。しかしながら、経済を管理することは、人間とその感情を巻き込んだ複雑なシステムである以上、おそらく、科学ではなくアートであり続けるだろう。その際、機械や機械的ルールではなく、過去から学習し、それに応じて適応することができる人間の判断こそが、主導的な役割を果たしていかねばならない。


どんなに優れた者が取り組もうとも、「過去から学習し、それに応じて適応する」株式や債券への投資が成功する確率は、常に五分五分だ。つまり、ほとんどノイズに過ぎない。サイズが大きければ尚更、無駄に動くほど擦り減っていく。我々がエスプレッソを選ぶのかラテを選ぶのか、ひとりひとりの我々は事前には知ることはできず、「主導的な役割」など誰にも果たせない。「べき論」すら不要なのは、遅かれ早かれ、中央銀行は「経済史の中の1コマに過ぎなかった」ことを思い知らされるだろう。そして競争的な通貨市場では、突出してスマートなトップなど現れることはない。