金融危機を発生させた真犯人としての管理金利制度

語順を変えて「金利管理制度」とした方が、日本語としては落ち着くとも思うのだが、要するに「管理通貨制度」を意識している。じゃどうしてそのまま書かないのかといえば、通貨の量は本質的なパラメターでないと思われるからだ。資金授受にかかる価格は、金利だ。


ドットコムバブル崩壊後に、グリーンスパンが過剰に緩和を続けたことが、サブプライムの過熱をつくり出す要因になったという。じゃ別の議長だったら、その間違いは避けられたろうか。仮定の話だが、あまりそうは思えない。大差なかったのではないか。または、別の「間違い」を犯したのではないか。近年の日銀の過剰な緩和が、円キャリー取引を通じてバブルを世界中にバラ撒いたとか、逆に緩和が足りないから、デフレを脱することができず我々の時間が失われ続けたとかいう。それ以前の、ザ・バブル崩壊を招いた利上げが悪いとか、80年代の緩和が悪かったとかいう。じゃ別の総裁だったら、それらの間違いは避けられたろうか。仮定の話だが、あまりそうは思えない。大差なかったのではないか。または、別の「間違い」を犯したのではないか。


金融危機を発生させた真犯人は誰か」のような問いそのものに、ずっとピンと来ていなかった。リスクの価格は本質的に評価性で、いつどんな値段がついたとしても、不思議など全くないと感じられていたからだ。他方で、これだけの大騒ぎの中で、リスクの価格形成について、たくさんの考える機会を持つことができた。そのことは、不確実な世界を観るための眼鏡を、より一層磨いてくれたように思う。で、あちこちが前よりもクリアに見通せるようになったとき、ひとつ気持ちの悪い仕組みを見つけた。無リスク金利の決まり方だ。


あらゆる投資が報われるのは、たった2つのコンポーネントによる。時間の価格(待つことの見返り)としての金利と、リスクの価格(不確実さの見返り)としてのプレミアムだ。それぞれの価格は、もちろん需要と供給によって決まらざるを得ない。ところが、その2つのコンポーネントのうちの片翼が、実際には妙な制度によって左右されている。中央銀行だ。


そう考えたとき、冒頭の複数の問いは、マーケットメーカーが常に完全無欠であることができるか、という形に変換することができた。答えはもちろんノーだ。「適正な」株価も、「適正な」為替レートも、「適正な」賃金も、誰かに決められるはずがない。金利だって同じことだ。もっとマシなやり方がある。


無リスク金利が、巨大なプレイヤー(中央銀行のことだ)の意思によって、需給で決まる水準から乖離するとき、もう片方の翼であるリスクプレミアムにどんな影響を与えるのか。この問いは難しすぎて、僕にはよくわからない。とはいえ、確信を持って言えることのひとつは、時間の価格が需給によって決まるとき、やはり需給によって決まるリスクの価格は、よりバランスのとれたものになるだろう。金融危機やバブルを減らすための努力のうち、もっとも本質的なもののひとつは、金利を市場に任せることだと確信するに至った。


予言しておきたい。25世紀には、日銀は存在していないか、少なくとも今よりもずっと小さな存在になっているだろう。また、そうなるように我々は努力しなければならないと思う。