無リスク金利の構造的な下方バイアス

さて、標記について「何に対して下方なんだよ!」というツッコミもあろうかと思うのですが、もちろん需給が決める水準に対してですよ。それから、「無リスク金利って何だよ!」という方は、お手数なのですが、金利リスクと信用リスクの買い手*1が、無限にいると思って下さい。


で、なぜ小さい方に偏るかって、中央銀行が低金利で貸し出すからです。バーゲンセール。持ってけ泥棒。我々の経済は、いつだって「重要な時期」にあったり、「正念場」だったり、「慎重さが求められ」ていたりする。当たり前だ。「いま別に全然オッケー」みたいな能天気さは、政治家であれ、中央銀行家であれ、我々の文化では高い評価を受けないことになっている。眉間の皺の数は、話者の真剣さに比例すると信じられているからだ。そのとき、政策金利に関するコメントを求められれば、世論だろうが識者だろうが、誰だって「下げろ」と騒ぐに決まっている。だって社長は皆、安く借りたいもの。ついでに言えば、そもそもこの文脈で、金利が大きい方に偏ることはできない。なぜって、高金利で無理矢理貸すことはできないからだ。


「誰もが安く借りられるなら、皆がハッピーなんじゃ?」


そうかもしれない。そう思うのは、普通の感覚だと思う。しかし待て。宇宙を貫く普遍の法則を、僕らは忘れてはならない。打ち出の小槌は存在しないのだ。トリックはどこにあるのか。中央銀行であれ誰であれ、需給で決まる水準よりも低金利で、無限に貸し出すことはできないはずだ。いつかは弾が尽きてしまう。そうやって利益をバラ撒き続けているのなら、どこかから同時に、利益を吸い上げていなければおかしい。中央銀行に搾取されているのは、一体どこの誰か。我々ですよ。そのハッピーな我々。具体的に言えば、日銀券の利用者。考えてみてほしい。一万円札に利息をつけることは、現代のテクノロジーをもってすれば、実に容易いことだ。チップを埋め込むだけでいい。にもかかわらず、そうなっていない。札を多く持つほど、我々は見えないコストを支払う。一見無限にも思われる日銀の倉庫の弾は、実は我々の財布の中から送り込まれている。


そうやって常に低めに誘導されている金利は、我々の日常に、様々な歪みをもたらす。金利が低いなら、借りて不動産を買った方がトクだ。金利が低いなら、借りて株を買ったほうがトクだ。金利が低いなら、借りて他通貨を持ったほうがトクだ。バブルはそうして生み出されたと、今も生み出されていると、僕は信じている。もちろん、現在はゼロ金利だ。銀行預金と一万円札の区別は、そこに名前が書いてあるかないかくらいの違いしかない。ゼロの下限に張り付いてしまった名目金利に対して、物価目標を導入しろだとか、現金に課税しろだとか、ずっとタダで貸すと約束しろだとか、勝手なことを言う連中が沢山いるが、いま金利を低めに誘導できなくなってしまった根源的な理由は、それまで常に低めに誘導し続けてきたツケを、いま払っていることにある。こりゃどうしようもない。ツケをツケで払おうだなんて、どんな飲み屋だって許容しない。


僕は、需要と供給で決まらない価格が嫌いだ。我々の経済の中で、もっとも影響力の大きな「歪んだ」価格は、この無リスクの金利であるように思われてならない。僕はこいつが、少なくともバブルと金融危機に関する、諸悪の根源だと信じている。株価だって、長期金利だって、為替だって、価格はおおよそ需要と供給で決まっている。こんなにも巨大な恣意性は、他に*2見つけることができない。この構造的な歪みがなくなるまでに、金融政策決定会合がなくなるまでに、需要と供給で無リスクの金利が決まるシステムが確立されるまでに、あと何十年かかるのか、僕にはわからない。ただひとつだけ、希望の光がある。電子マネーだ。無リスク金利の構造的な下方バイアスは、僕らが紙幣を持たなくなるとき、同時に消え去る運命にある。弾切れを起こすからだ。

*1:id:equilibrista:20100217:p1

*2:人民元くらいか