一次元経済学

百歩譲って、例えば何らかの比較のために、シンプルな目安が欲しくなる気持ちは認めよう。とはいえ最初は物差しに過ぎなかった指標が、だんだんと独り歩きを始めると、いつだってロクなことになった試しがない。


メダル獲得のためのオリンピック、ノーベル賞のための研究、残高目標のための融資、政策目標としてのGDP、株価のためのROE、よくわからないけどインフレーション、トラッキングエラーのためのポジション、雇用形態の関数としての失業率。ちょっと考えれば明らかなことだが、たった2つの産業から成るネバーランド*1でさえ、これらは上手に機能しない。


もちろん僕だって、時に無自覚に素朴に、「もっといい」を求めて、店頭だってアマゾンだって、夜の街だって空の下だって、隅から探しまくってしまう。つまり指標が具体化されているか否かは、あるいは頑健であるか否かは、ここでは問題でない。好景気が何を指すのか、実際のところよくわからない。


ついついそうして、射された影を最大化することが目的となったとき、僕らは障子の向こう*2で何をするだろうか。芸者の幻を妖艶に躍らせる構図を、自覚の有無にかかわらず手助けする一次元経済学を、今後も積極的に馬鹿にしていこうと決意した。