現場ビューの総合計としての世界
こうして雑文を垂れ流し始めてから、既に二年もの月日が経過している*1ことに自分でも驚くのだが、「ご縁をいただいた」と表現すべきか、やはりネットで書かれる、それぞれの現場の最先端の方々にお会いして、一杯を交換するチャンスを持つことができた。
至極当たり前の話だが、神は現場にしか居ない。日夜をそこで過ごし、生産を続けることは至極普通のことで、同時にまったく普通じゃないと表現せざるを得ないのは、1)誰もが覗けて、2)誰もが参戦できる現場で勝ち続けることは、チャンピオンにしか不可能だからだ。もちろん、ふたつの条件は、ビジネスによっては曇りガラスの向こうにあったり、また高い塀の向こうにあったりする場合もあるわけだが、その分のディスカウントすら、何かを表現していて興味深い。早く本題に入らないと、読みにくくて帰られてしまうのは、よくわかっている。僕が自分の師匠と、そのまた師匠に長い時間をかけて教わったことは、そうした現場ビューの勝負への表現の仕方だった。ブラックとリターマンのアプローチは、要約すれば、お前の主観は、それだけでは少し頼りないから、すべての主観の合計としての世界を出発点にしろと、そういうものだ。
俺の主観 + 世界の全体 = 勝負の一手
俺の主観は非常に不安定だ。ひとりの人生が触れられる現場の数なんてのは限られていて、そのビューは高々転職した数くらいのものだ。マーコヴィッツの流儀を用いようとしたところで、よく知らない現場やそのリスク、互いの関係まで含めて、持つべきポートフォリオを探ろうったって、欠損やらアンバランスやら濃淡が、どうしたって出現せざるを得ない。そこでブラックは世界の全体を持ち出した。誰もがリスクをドライに評価する世界では、それは現場ビューの総合計と一致し、個々はその全体との関係において評価される*2と、彼は考えたのだ。で、そいつに敬意を払えと。このことは20年経った現在、先進的な現場でのコンセンサスになっている。洗練されたアクティブなポートフォリオは、その参照として標準的なベンチマークを持ち、主観はそれとの対比としてメカニカルに表現される。
この枠組みに、僕は夢中になった。世界と自分とを対比すること、その構造を記述するモデルに魅了され、今振り返れば、人生を捧げている。具体的にどんなふうに捧げてるかってのは、脱線になるので別の日に書きたいと思うのだが、それは当ブログを続ける直接の動機でもあって、しかしゴールはまだ見つかっていない。要するに、仕事下さい。ご相談承ります。さて、宣伝を完了したところで、すこし乱暴だが世界を分解してみよう。リスク資産の時価総額は、こんなふうにも見ることができるはずだ。
俺以外の主観 + 俺の主観 = 世界の全体
世界は俺以外と、俺とで成り立っている。当たり前だ。しかし両者で見解が異なれば、売りと買いは相殺され、世界の全体には表現されない。これも当たり前だ。もちろん他方で、一致する見解、例えば東京電力の将来については、その合計が時価総額として表現されることになる。これを最初の式と見比べてみてほしい。合算してみてほしい。勝負の一手には、俺の主観が大半を占めるものの、俺以外の主観も、その要素を構成することになる。
勝負の一手 = 俺以外の主観 + 2x俺の主観
リスクの取引が生まれるのは、売り手と買い手とで、見ている未来の姿が異なるときだ*3が、俺以外と俺とが持つ互いに異なる主観を、分解して考えることで、勝負の一手が見えてくる。ブラックとリターマンの枠組みの思想の根幹が、ここにある。福島の原発の現場も、輪番停電の現場も、金融政策の現場も、小さな顧客ビジネスの現場も、twitterやらブログやらで交換されるとき、それぞれの勝負の一手が浮き彫りになってくる。
この数日、リスク市場の現場で勝負された皆さんを、心から尊敬するとともに、僕自身のまた次の一手のために、その主観を互いに交換したい。そんなチャンスを沢山持ちたい。それが20年前のブラックとリターマンを、現場で感じることだと、そう思った。そういう最高の夜だって話なんだ。酔い気味なこともあって、すこし面倒な記事になっちゃった。近日もっとスカっとした奴をいきます。本当です。頑張ります。