投資の消費性について

昨日の記事を広めていただきました皆様、ありがとうございました。背中を押していただいた [twitter:@kenchamam] にも深く感謝します。すべてのチャレンジャーを、ほんのすこしだけ、助けたと信じています。大変な一日は夕刻を迎えつつありますが、暮らしも経済も復興の努力も、もちろん続きます。


株価は下落しました。リスクプレミアムは拡大した。我々を含む市場参加者のコンセンサスとして、リスクに対して、より大きな見返りの水準を求めた*1わけです。この大きなプレミアムは、リスクを負担している我々に、今後大きく分けて二つの形で届きます。ひとつは、もうすこし見返りは小さくてよいと市場参加者が見方を変えるとき、短期的な株価上昇の姿で。もうひとつは、要求する見返りの水準は変化しなくとも、割り引いたほどのリスクは顕在化せず、時間の経過とともに緩やかな株価上昇の姿で。


リスクという概念は、あまりにも広い範囲をカバーします。それらの一部を負担することで、見返りを期待することを投資と定義するとき、そのメニューは数えきれません。「どんな投資がいいのか?」というシンプルな問いに対して、プロフェッショナルとしての自分は、ずっと格闘してきました。その過程で得たものの一部を、当ブログで皆様に垂れ流していますが、ひとつの答えに辿り着きつつあります。「負担したいリスクを探せ」という、やはりシンプルなものです。それは世界の全体である場合も、素敵を選別するチャレンジである場合も、明らかな間違いの訂正である場合も、あるはずです。もちろん、それら組み合わせや全部である場合も。


そうしてリスクの分業の、引き受ける側に回って最高の投資に取り組むとき、それは消費と区別がつきにくいことに気づきました。だって最高の気分だからさ。我々は、我々が望むものを探し、つくり出す。最後に残ったのは禅問答ですが、しかし普段は理屈ばかり捏ねている自分が、今日は素直になることができました。今夜も明日も、やることは沢山あります。だってチャレンジは、どこまでも続く。ガタガタ言ってねーで分業しようぜ。