ゼロベータファイナンス

Taejunomics 日本でマイクロファイナンスができない理由
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マイクロファイナンスにおいては、この借手探しのコストは地元のコミュニティが負担しているわけです。(よい借手探しは、いつもその人と顔を突き合わせているコミュニティの人々にとってはあまり高い費用を要するものではない一方で、金融機関にとってはかなり高くつくこともポイントです)

誰もがお金を返せなくなって地元のコミュニティからのけものにされるのは嫌なので、借手は一生懸命に働くことになります。金融機関が本来するべきモニタリングのコストが、これまたコミュニティによって負担されているわけです。

このように、コミュニティの結束力が、金融機関が本来負担していたコストを下げるために、通常のファイナンスよりもよい条件での金融サービスの提供が可能になるわけです。


言い換えれば、村から解放される自由は、借金をする際に上乗せされる信用スプレッドとの、引き換えになっているという指摘だ。だとすれば先進社会で、貧困を脱するために、お金を借りて生計を立てる術をつくり出そうとするとき、もういちど村に戻ることで信用リスクを引き下げる選択肢を、我々は望むのだろうか。結果的には、それに似た構造は存在しているのかもしれない。例えば、自分が勤める会社に紹介される住宅ローンがそれだ。


しかし、低利を得るための作戦が、自ら望む束縛だけであるはずはない。借り手のつくり出そうとする「生計を立てる術」が独特であるほど、信用スプレッドは小さく、低利で借りられるはずだというのが、我々の愛するCAPMの教えだ。現状金融機関が望んでいる「安全のための割り増し」は、まだまだ削ることができるのではないか。リスクの交換市場を発達させることで、信用スプレッドは縮小するはずなのではないか。借り手がどんなチャレンジに資金を投じるのか、それがどんなふうに独特で、だからこそプレミアムは小さくてよいと示すことが、日本だけでなく先進社会の、小さなファイナンスの姿ではないのか。そんな風に、昨晩思った。


僕らは借り手に、身の回りに新しいチャレンジがないかを聞く。皆がほしいと思ってるはずなのに、誰もつくらないものは何かを聞く。それが見つかったとき、相対的に低利の融資が可能はなずだ。もちろん同時に、僕らは今よりもすこし豊かになる。なぜなら、皆がほしいと思っていたものが、新しくつくられるからだ。一方で僕らは資金の貸し手に、その効用を説く。いま保有しているポートフォリオと相関の低いリスクには、期待できるリターンが小さくとも、投資する理由になりますよと。それがリスクを分散させ、新たなポートフォリオの効率を引き上げるからだ。完成した。名づけよう、「ゼロベータファイナンス」の誕生だ。


もちろん、そんな芸当は簡単じゃない。世界で最も進んだ国のひとつで、皆がほしいと思ってるのに、誰もつくらないものなんて、そこらへんに簡単に転がっているわけがない。仮に見つかったとしても、乗り越えるハードルの数も大きさも、半端なものであるはずがない。しかし、だからといって悲観するのは馬鹿げている。世界は、チャレンジがあってこそ効率的なのだ。ひとつ証拠を見せよう。だって誰も、このゼロベータファイナンスをやってないじゃないか。


ライバルは巨大だ。生活保護や制度融資。それでも、考えてみる価値はあるように思う。慎さん、取り組んでみませんか。