先進中銀のための受動的金融政策入門
イエレン率いるFOMCの初回で注目されたのは、いつまで低金利誘導を続けるのか。これまで物価と失業率を参照すると言っていたところを、より総合的に判断しますよと言い換えた*1わけだ。失業率は低下したけれども、どうにも状況はよくないように思われるので、あちこち見ながら手探りでやりますよと。もうちょっと続けますよと。
金融市場が発達するほど、中銀の行動は受動的にならざるを得ないというのが当ブログの立場なわけだが、そうして遠い未来から今日を振り返れば、1)物価と失業率だけ見て違和感が出てくる場面があるのは当然でしょと、2)だからって色々と眺めて判断しようとしても百家争鳴で混乱するよと。それ以前に、中銀がタヌキ面してバーゲンセールを続けるとか終わるとか、そんなのを皆が気にして商売やら買い物する必要がある時点で、単に面倒コストが上乗せされるだけだ。
金融政策のメカニズムは単純である。より低い金利へと誘導しようと思えば、周囲よりも低い金利で貸し出す。より高い金利へと誘導しようと思えば、周囲よりも高い金利で預かる。気をつけるべき点は、安く貸し出すからといって、安く借りられる理由は特に見つからない。高く預かるからといって、高く貸し出せる理由は特に見つからない。需要と供給で決まる金利はひとつしかないわけだが、そうして介入によって操作しようとすれば、須く中銀の財務体質を削ってしまう。結果として信用に疑義が生じれば、我々の経済には実に面倒なことになるわけだが、より積極的に、いずれ進まざるを得ない道を覗けば、いつだってヒントが転がっている。受動的金融政策の実際を、今日は具体的に辿ってみたい。
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小見出しは「現時点」のイメージだが、我々の金融市場では、今この瞬間に、カネを借りたいひともカネを貸したいひとも沢山いる。そうした資金の需要と供給を、上手に自然に、互いに折り合うことを手伝ってやることが、受動的金融政策の背骨である。縁談オバサンのようなものだ。もちろん「貸したい」中には、紙幣の形で我々が中銀に預けているカネも、必然的に含まれてしまう。現在の資金市場では、中銀が存在感のあるプレイヤーであることは否めない事実だが、なるべく綱引きに影響を与えないように、なるべく金利を余計に動かさないように、そろりと優しくカネを貸す。目標だとかガイダンスだとか、声高に下品に叫ばない。
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明日以降の短期資金の市場について、どんなふうに中銀は向かい合えばよいだろうか。そんなもの答えはシンプルで、あらゆる他の市場のそれと同じ、明日は明日の風が吹くと達観することである。しなやかな未来は、そうして導かれる。我々が全体として、例えば人材への投資を好まないまま、不動産に突っ込みたくなる可能性は十分にあり得る。そのとき失業率は高止まったまま、貸し出されたカネは地価を押し上げるだろう。資金が欲されるとき、そのことに伴って自然に金利は上がる。それでいいじゃないか。理由なんて関係ない。資金が出されるとき、そのことに伴って自然に金利は下がる。それでいいじゃないか。勝手に調整されるさ。
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自然に折り合う金利が、ゼロになってしまった場合は、どのように考えればよいだろうか。うん、やっぱり放っておこうぜ。カネを借りる側も、カネを貸す側も、そのときゼロ金利を前提とした行動を取る。非負制約に縛られているようにも見えるが、このとき実質金利は、そうでない場合と同じように、需要と供給で決まると思って差し支えない。物やサービスの価格も、リスク資産の価格も、しばらく金利を忘れつつ探るだけだ。中銀にとって、低利方向への介入は難しくなった。世間がパニックに陥って、投げ売りで物価が暴落すれば、その分だけ実質金利は高止まってしまうが、そんなときには政府と協力して、皆の心を落ち着かせる仕事をしよう。
さっさと電子マネーが、すべての紙幣を追い出してしまえば素敵だと、いつも思う。そのとき僕が叫ばなくとも、貸すカネを持たない中銀にとって金融政策は難しくなる。受動的であることを迫られる。そうした「金融市場の発達」のひとつの形は、僕らの手元に未来を引き寄せるが、手垢のついたコインよりも、きっと輝いている。