需要と供給で決まる金利はひとつしかない

(実質)金利の水準が変われば、将来の生活にかかる費用や、借金の重さは変化してしまう。そんなふうに大きく社会に影響する値段を、一体誰が決めるのか。中央銀行?馬鹿を言っちゃいけない。部分的には、また歴史的にはイエスだが、そんなハリボテは長く続かない。

  借 手     貸 手
----+---- ----+----
商売|借り 貸し|生活


僕の好きな、こんな感じのバランス視点を、右側から確認していこう。人生の長さは有限だ。もっと言えば、我々は年を取ると若いときほどには働けないので、人生の前半で稼いだ分を、将来の生活のために人生の後半に回す。しばしば銀行が代行してくれる仕事について考えればシンプルだが、貯めることは、つまり貸すことだ。他方で商売人は借りる。「借りない経営」は時間がもったいない。仕入れたり設備を整えるのに、あるいは誰かを雇うのに、ちょっとずつ貯めていたら人生の後半に差し掛かってしまう。見込み顧客だって、首を長くして待っている。そうして始める左端の商売は、右端の、誰かの将来の生活にかかる物やサービスをつくり出す。こうして分業は、グルッと回るわけだ。


さて金利は、借り手が貸し手に払う時間の値段*1である。他のすべての値段と同じように、その水準は綱引きで決まらざるを得ない。借り手は、もっと安く貸してくれるひとを見つければ、そちらから借りるからだ。貸し手は、もっと高く借りてくれるひとを見つければ、そちらに貸すからだ。他の借り手や貸し手を探すことは、プレイヤーが増えるほど、あるいは情報を取得するコストが下がるほど、容易になる構造であることは言うまでもない。


注目いただきたいのは、考えてみると、貸借は必ずしもマネーによって行われる必要はない。一宿一飯の恩義、情けは人の為ならず。上手に約束さえ整えることができれば、貸借の媒介は何でもよいわけだが、少なくとも20世紀までは銀行が便利だった。そして連中に介入したのが、中央銀行だ。紙幣の独占的な発行は、「ウチで借りれば安くするよ」という金利の操作のための財布になった。そうして水準を引き下げたとき、貸し手の受け取る利息を減らし、借り手の支払う利息を減らす。忘れてはいけないのは、どんなに介入されたところで、人生の後半に向かって購買力を貯めたい我々のニーズは消えない。銀行を利用して「貸す」ことが不利に見えれば、多少不便*2でも、我々は別の手段を同時に探す。特に難しい話じゃない。長めの国債に手を出してみたり、商品ファンドを買ってみたり、不動産に突っ込んでみたり、ヘッジなんちゃらに預けてみたりする。そしてチョロチョロ動かす。そういうことだ。また「借りる」ことが有利に見えれば、単に借りて、別の形で貸す投機屋も颯爽と現れる。さっきと同じだ。長めの国債やら商品やら不動産やら怪しいところに突っ込む「商売」の隆盛は、たしかに黒塗りメルセデスの販売を増やす。政府?彼らはいつだって、借りては無駄遣いを続けてる。


社会が急速に「成長」する状況下では、生産能力を整えるために借り手を援助する介入は、上手に機能しているように見えた。見えただけだ。あるいは別の見地に立ってみれば、そうして人生の後半に備えた「貸し」から(広義の)税金を取る代わりに、おかしな年金制度は逆向きに、つまり人生の前半に稼ぐアクションから補助金を送り出し、両者を相殺させる構造でもある。相殺してりゃOKと思うかもしれないが、その間には壮大な非効率が、無数のコバンザメがひしめき合う。25世紀にはきっと、そのどちらも存在していない。無駄だからだ。

*1:リスクの値段も別途請求される

*2:例えば決済には使いにくい