円は死なない

はじめにお断りしておくが、円売り介入と外為特会の政治的意義だとか、債務危機に果たす金融政策の役割だとか、あるいはエマージング債券投資における為替オーバーレイ戦略の話ではない。タイトルから先に考えたことは事実だが、今日の話は、マネーが消滅した後の世界を想像する、要するに空想的なそれであって、現場の第一線で活躍される皆様にとって、どちらかといえば清涼剤でありたいと考えております。もちろん、冒頭に挙げた漢字が多い類のご相談につきましては、いつでも個別に承りますが、そのコースにつきましては {速い, 安い, 丁寧} の中から、お好きな2つをお選び下さい。


さて、本題に入ろう。我々はいつでも、物やサービスの対価として日銀券を受け取る義務があるので、そいつが信用ならないと思われたとしても、拒否することは難しい。一万円札で払いたいお客さんに、他の手段にしてもらえませんかと、主張することはできないのだ。とすれば、どうしても自分が売る物やサービスの価格には、その「日銀券が信用ならない」という疑いを反映させる必要が出てきてしまう。最近ではジンバブエで起きたそのアクションは、信用インフレの基本的なメカニズムだが、もちろん疑心暗鬼は我々の分業にとって、ひとつもロクな事情を生み出さないことは言うまでもない。


タイムトラベルは否定されてしまったようだ*1が、しかし当ブログが25世紀に予言するのは、そうした中央銀行の信用に起因する面倒は、我々の日常的な決済からは切り離されているだろう、つまりマネーは独占から解放され、政府の一子会社の負債でなく、広く分散された多数の個人や法人の負債が、日常的な交換の媒介として使われるようになるだろう、あるいは競争が、そういった状況を必然的に導くだろうという希望的観測である。


「円はなくなってしまうのですか?」


そうして日本銀行が解体*2され、紙幣と金融政策が消滅する*3とき、しかし同時に「円」も死んでしまうのだろうか。これがまさに今日の表題にかかる問いなのだが、そんなことはないと僕は考えている。ノスタルジーからそう主張するわけではない、具体的な経路を想像してみたのだ。例えばスイカやナナコのような、あるいは小切手でも、またカード決済でも同じことだが、代替的な決済手段が発達したある日を境に、日銀券を拒否できるように法律が改正されたと思おう。このとき我々は、信用インフレから解放されることになる。


「すみません、お支払いは紙幣でなく、電子マネーか振込でお願いできますか?」


銀行を含む誰もが、こんなふうに要求できるとき、ゴミ箱*4のように余計なモノを飲み込んだ日銀に無利息で貸す奴など、どこにも現れない。信用できないマネーについては、誰もが拒否できるのだから、自衛のためにスパイラル的に物価を引き上げる必要は、そもそも発生しない。このとき、あらゆる代替的なマネーは裸の状態では、その信用に応じて金利*5を要求されるだろうが、スワップ取引によってリスクは移転され、プレミアムを差し引かれた無リスクの短期金利は、唯一つに落ち着いているはずだ。


このとき円は最早、日銀の負債からは分離されている。が、しかし当然のことながら、我々の売る物やサービスや、または銀行預金の額が突然変わったりする話ではない。名称まで変更すべき理由など存在しないのだから、サイズ表示なんて相変わらず「円」で何の問題もない。予言しよう。25世紀の円は、我々の経済圏における無リスク金利のインデックスだ。銀行預金は、その同じ速さで増えていく。これが需要と供給の決める、時間の値段である。

*1:http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2815510/7552262

*2:だって不要だ

*3:その財源がなくなってしまう

*4:http://twitter.com/#!/gion_mkt/status/54505846528425984:twitter

*5:すべてのマネーには利息が払われるだろう