復興資金は「あげる」か「貸す」のどちらかだ

または両者の組み合わせになる。ほとんど自明のことだが、すこし落ち着くためにも、よく採り上げられる手法の構造を確認しておきたい。「あげる」と「貸す」は、どんな特徴を持ち、どんなふうに組み合わされるのか。すこし乱暴なくらいがいい。大切なのは、何が起きるのかを、大雑把にでも把握することだ。

寄付

寄付はシンプルな構造で、とても機動的だ。既にあちこちで大勢が動いている。いま余裕のあるひとから、ハブになる公的な組織やボランティアを通じて、いま必要としているひとに「あげる」。使途は自由で、とても柔軟に使うことができるが、一方で規模を大きくすることは難しい。「あげる」ことのできる金額は、一般にあまり大きくないからだ。また、気をつけなければいけないのは、「あげる」先になっているハブ組織の信用である。何にいくら使ったのかについて、しっかりと確認することは肝要だ。そうでないと、必要としているひとでなく、(時に無自覚な)悪いひとに「あげる」ことになってしまう。

増税

増税は要するに、「あげる」を強制することだ。一旦政府が貰って、必要としているひとに、多くの場合は再び「あげる」わけだが、「貸す」方に回す場合もあるかもしれない。増税は、寄付に比べると、大きな金額を集められる。「あげる」ことに自発的でないひとは多いからだ。また金額についても、強制力の限界は、自発よりもずっと高い。破壊されてしまった町やインフラを復興する*1ためには、おそらく増税が必要になるだろう。そして具体的な使い道は、政府に委任することになる。もちろん我々は、直接には選挙で意思表示するわけだが、この構造が起こしてきた失敗について、いま思いを馳せないわけにはいかない。

復興国債を発行

債券は、借金の別名である。貸せるひと*2が、まず政府に「貸す」。政府はその金を、必要としているひとに「貸す」場合もあれば、「あげる」場合もあるだろう。「貸す」場合には、将来に返された金を、そのまま貸してくれたひとに返せばよい。政府は仲介に過ぎない、素敵なプランだ。一方で、「あげる」場合にはトリッキーである。その元手を貸してくれたひとに、政府は返す必要があるからだ。どうやって返すかといえば、もちろん将来の増税にならざるを得ない。つまり、今日我々にとって「貸す」に見えたそれは、実は将来、税金の形で「あげる」ことになる。全体の構造が見えにくいため、なあなあに進んでしまいがちだが、そのせいで国債の発行は、これまで山積みになってきた。

復興国債を発行して日銀が引き受け

日銀が、政府に「貸す」のがいいんじゃないかという、産経新聞が煽りがちな議論だが、その金がどこから出てくるのか、よく考える必要がある。当ブログでは頻繁に書いているので、詳細は省略するが、要するに紙幣を使う我々が「貸す」構造になっている。我々が日銀に「貸す」、それを日銀が政府に「貸す」、それを政府が必要としているひとに「貸す」または「あげる」。最前線で、政府がじゃんじゃん「あげる」と危ない。日銀には返ってこないかもしれないと誰もが疑うとき、その日銀は我々に返してくれないだろうと、やはり誰もが疑う。信用インフレのメカニズムである。さらに全体の構造は見えにくく、とても危険を孕んでいるので、歴史は人類に工夫を強要した。中央銀行の「独立性」なる概念だ。

資金調達市場

さて仲間外れにも見える資金調達市場は、この文脈では「貸す」のバリエーションみたいなものだ。乱暴といえば乱暴だが、要するに返ってくることが前提である。被災地であれ、支援する周囲であれ、また別の地域であれ、「こんなことをしたい」と宣言するチャレンジャーに、例えば株の買い手が金を「貸す」。借りた野心は、皆が望んでいるものは何かを探し、それを提供することで利益を得ようと試み、結果を「返す」。こいつは有機的だ。チャレンジを名乗り上げるのだって競争だし、金を出しリスクを負担するのだって競争で、現場でお客さんに*3アピールするのも、もちろん競争だ。個々のチャレンジが、全体をつくり出す。


僕は、一番最後の「貸す」が好きだ。もちろん、素敵な分業が行われるためには、いくつかの条件が必要になる。いつもの奴だが、透明なことと、誰もが参戦できること。とはいえ壁は破壊された。見通そう、そして乗り越えよう。

*1:「あげる」のバリエーションだ

*2:要するに我々だ

*3:つまり我々に