非伝統的金融政策が財政政策とは根本的に異なるたったひとつの理由

タイトルだけキャッチー風にしてみたところで、この手の与太話が興味を集めるとも思えないのだが、要するに財布が違う。いつものように極端な例で考えてみよう。程度はあとで、好きに調整すればよい。


政府が「穴を掘って埋める」100兆円の公共事業を実施するとしよう。給料として100兆円分を払うと、馬鹿みたいに当たり前だが、その分だけ政府の資産は減ってしまう。とりあえずは借金でシノぐのだろうが、返済のために税金をかき集めてくるのは難しいんじゃないかと貸し手が思うとき、国債に要求される金利は高まってしまう。いわゆる信用スプレッドの拡大である。こいつは結構困った事態だ。なぜなら、国債金利が高まるとき、納税者としての僕らが借りる金利も高まってしまう。新たに商売を始めようとするチャレンジや、住宅ローンを借りて家を買おうとするチャレンジが、鉄下駄を履かされてしまうのだ。


ならば代わりに日銀が、「穴を掘って埋める」100兆円の公共事業を実施するとしよう。包括緩和に(ふさふさと)毛が生えたようなものだ。給料として100兆円分を払うと、馬鹿みたいに当たり前だが、その分だけ日銀の資産は減ってしまう。既に金を貸している者としては、当然不安になるわけだ。我々の財布の中には、奴に対する借用証が入っているが、券面に書かれている満額分は取り立てられないかもしれない。こいつはケタ違いに困った事態だ。そんな紙幣で、物やサービスを提供した対価を受け取るとき、ちょっと多めに貰わなければ割に合わない。いわゆるインフレーションである。新たなチャレンジ以前に、日常的な支払いに際して疑心暗鬼の見積りを交換せざるを得ず、交渉力の弱い個人は、上昇してくる水面に呼吸を脅かされることになる。


仮に日銀法を改正して国会で議決したところで、日銀が公共事業を行うことの馬鹿さ加減が変わるわけではない。その債権を政府が保証するのは、手段のひとつとして有り得るだろうが、しかし政府の信用が失われるとき、その意味は薄く禿げ上がる。「中央銀行の独立性」は、その債務の発行体としての信用を、政府よりも高い状態に保つためにある。