フラートン「通貨論」を読む

equilibrista2011-01-05

手元の岩波文庫第二刷は昭和十八年、オリジナルは1845年、フラートン「通貨論」をアマゾンで衝動クリックし、夢中になって読んだ年末年始でした。150年以上も前の、決済も貸借も、銀行制度も投資環境も、今とは全く違う時代の迫力ある議論に圧倒されます。余計なイントロをつけたくなる気持ちをグッと抑えて、まずは第五章「兌換通貨の流通法則」より引用してみる。

銀行券が社会の需要以上に巨額に発行された場合に、それが流通界にとどまりうると想像するのは、流通する銀行券の分量が、それを流通させる人々の要求にもとづくのではなしに、発行者の意志にもとづくことを是認することとなるであろう。これまで銀行機関をもっていなかった地方に、発券銀行が創設された場合に、その銀行業者が、これまで流通してきた貨幣に代って自己の銀行券を代位することによって獲得する資本の支配力は極めて顕著なものであって、彼等はこの支配力によってその付近一帯に信用と繁栄をもたらすことができるのである。しかし、人々は、ややもすると、かかる力になんらの限度もなく、銀行券の代位が完成されてそれが既に流通の通路を充満している後においても、銀行業者は銀行券を増加して、そのもたらした繁栄になお新しき刺激をあたえ続けてゆくことができるかのごとき迷想に陥りやすい。


(中略)


地方銀行の発行高は、一つにその各々の地方の地方的取引と消費の程度によって制約され、生産と価格の変動につれて変動し、もし地方銀行がかかる取引と消費の程度以上に発行高を増大せんとすれば、銀行券はたちまちにして彼等のもとに還流し、反対にその発行高を減ずるならば、殆んど同一の確実さをもって、この空虚が他の源泉から充されるという確信にたいして、必ずやある程度の信頼を抱かざるをえないであろうと思う。


(中略)


銀行券を発行するのは銀行業者であるが、しかしそれを流通さすのは公衆一般である。だから公衆の協力を俟たなければ、それを発行する力も意志もともに無益である。銀行券の流通は、都合を問わず、規則的に生起する原因によって一定の周期的な干満を辿りやすいが、発行者はそれをなんら統制できず、またそれを生ぜしめた諸事情の直接的範囲を超えては、その効果は先ずないと見られる。


微妙な訳もあるが、意味は通る。現代の議論をカバーするだけでなく、地方銀行による発券にかかる考察は、通貨発行自由化論的な色彩まで帯びていて、実にシビれる。繰り返すが、SuicaもATMも、電波も電線も、信頼できそうなデータすらない時代の、論理による帰結だ。彼の理屈の骨子は、この「還流」にあると思うのだが、現在の我々の事情に翻訳すれば、いくら札を印刷してヘリコプターでバラ撒いたところで、我々はコンビニのATMを使って入金してしまう。銀行がそれを日銀へと返せば、増えるのは日銀券残高でなく当座預金だ。もちろん最近じゃ利息が付く。さて、そんなふうに貨幣数量説をぶっ飛ばす第六章「物価の変動と通貨の分量」へと進もう。

銀行券の伸縮は、ある一定の事情のもとでは、物価の変動を惹起すと見られているのであるが、実は、かかる変動の原因ではなくて、結果なのである。すなわち、それは、かかる物価の変動に先行するのでなくて、反対にそれに追随するのである。


(中略)


通貨需要が多かれ少なかれ依存するのは物価の状態である。だから、銀行業者にたいして、物価に無頓着に銀行券の発行を命ずるのは、銀行券にたいする需要を無視して発行を命ずるのと同然である。なるほど、地方銀行業者が物価によってその発行高を決定すると述べるのは厳密には正確でない。なぜなら、銀行業者は事実上その点では殆ど受身であり、発行高を左右するのは物価であるから。


彼は当時の通貨論争の中では、銀行学派の代表選手のひとりで、マルクスとも議論があったようだ。本職の [twitter:@mnb_chiba] さんには多くのご指摘をいただき、大変勉強になりました。深く感謝します。イングランド銀行の偉大な歴史を、現在のBOEの政策と照らし合わせれば、様々な意味で感慨も深い。


通貨論 (1941年) (岩波文庫)

通貨論 (1941年) (岩波文庫)

On the Regulation of Currencies

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それにしても、60年以上も生き延びてきた文庫本が、一時間労働の対価として、クリックひとつで自宅まで届けられる実質成長。最高じゃないか。