資本コストなんて存在しない

WACCなる概念を、ずっと理解できずにいた。その何十年も前に発見された、モジリアニとミラーの帰結に反するように思われたからだ。以前にも似たようなことを書いた*1が、資金調達の手段を変えたところで、その弾を突っ込んでいるビジネスのリスクが変わらなければ、我々はちょうどその分だけ、株式に要求するプレミアムを修正するだけのはずだ。ところが今週末の勉強会で、「資本コスト」が採り上げられることになった。もうすこし掘り下げて考えてみようと、秋空の下で自転車を漕ぎつつ悪戦苦闘していたところ、どうもAPTのミクロ的基礎みたいになってきた。要するに、株式はリスクのポートフォリオで、CAPMのベータは、その線型和として決まるように思われた。簡潔にまとめてみたい。


貸借対照表は、一般に下記のように表現されるが、例えば工場をつくろうとするとき、株主のお金と借金とを、合わせて工面することをイメージしてもよいかもしれない。


(1) 資産 = 負債 + 資本


一方で、資本の区分的所有権は、株式市場で、需要と供給が決める価格で取引される。将来に工場を売って得るお金や、将来に返す借金も含めて、それらすべてを清算した残りは、株主に帰属する。


(2) 将来に入るお金 - 将来に出るお金 = 時価総額


ふたつの式は、実は同じものだと、僕は考えている。何を言っているのか、よくわからないと思うが、ふたつの式が同じであるためには、つまり資産とは、将来に入るお金のことだと、また負債とは、将来に出るお金のことだと、思うのだ。これは、それほど突飛な発想ではない。似たようなことを考えている連中は世界中に沢山居て、会計は、そちらに向かって歩みを進めているはずだ。


現在の現金や、工場が将来に渡って生み出す利益も、そこにある設備を売って得る代金も、その不確実性に違いこそあれ、すべて資産と思う。銀行への返済や、将来に渡って支払う給料も、事故を起こして発生する賠償金も、その不確実性に違いこそあれ、すべて負債と思う。その評価の差額として、株式の時価総額が決まっていると思うとき、古典的な意味での「負債」を、特別扱いする理由は見つからなかった。


だんだん話が面倒になってくるが、それぞれのアイテムには、将来に期待される金額と、もちろんリスクがある。古典的な意味での「負債」にしても、いつ徳政令が出ないとも限らない。それぞれの現在価値を評価しようとするとき、その割引率を構成するリスクプレミアムは、市場ポートフォリオとの相関で決まると思おう。そう、ベータだ。そして、さらに言い換える。貸借対照表を構成する複数のアイテムは、リスクの種別に分類し、それぞれのプレミアムで割り引くのだ。


(3) ∑{将来のフローi/(1+割引率i)} = 時価総額


もちろん古典的な意味での「負債」は、ここでは左辺を構成するひとつのアイテムに過ぎない。そして当該株式のリスクとプレミアムは、左辺に横たわる複数のリスクのポートフォリオとして決まる。まるで個別銘柄の集合体としての、市場ポートフォリオのように。ベータの線形性を想起すると、腑に落ちるかもしれない。もちろん、貸借対照表が違っても、同じリスクを内包しているケースだって存在する。電気自動車ブームがやってくるとき、電気自動車の売り上げは増えるだろうが、つくるのはトヨタだけじゃない。スズキだって、ボケッと指を咥えて眺めてはいないだろう。


世界は、負債と資本のポートフォリオじゃない。資産のポートフォリオでもない。リスクのポートフォリオなんだ。モジリアニとミラーが発見し、トレイナーとブラックが整理したのは、そのことだったんじゃないかと、50年後の透き通る青い空を感じながら走った。

*1:id:equilibrista:20090524:p2