物々交換が進化した世界と金融政策

@flyingLarus そして物々交換して、経済は変化していく。。RT @titanplate: 考えようによっては年金の代わりに米が自宅に届くと、重たい米を買いに行かなくて済むと喜ぶ老人も居そうなもんだが。

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実際のところ、皆がハイテク端末を持ち歩く21世紀には、マネーなぞ不要で、物々交換が進化した世界を、十分に我々は想定できるのではないか。そんなふうに触発されたわけです。考えてみようぜ、年金や給料の代わりに自宅に米が届く世界を、そして、その進化について。

物々交換が進化した世界

もちろん、我々の手元に届くのが米だけよりも、その一部は今月の飲料水として、また別の一部は穴が開いてしまった靴下の代わりの新品として、送ってもらう方が素敵だ。今の毎日の生活スタイルに合った形で、靴下のサイズと色については指定させてもらった上で、日常的に消費する様々な物やサービスが、バランスよく届いてほしい。もちろん、突発的に欲しくなる趣味的な消費だってあるだろう。例えば、ショーケースの向こうで金色に輝くトランペットだ。こいつは毎月自宅に送られてきても困ってしまうが、そういう一度きりの買い物は、楽器屋と手続きを結べばよい。もちろん、トランペット演奏のレッスン代も同じだ。来月には、送られてくる米と水と靴下とを、ひとつ買ったトランペットと(続くかわからない)レッスン代の分だけ、減らしてもらう。容易に想像がつくように、この手法は、我々の生活のほとんどあらゆる場面をカバーする。よく消費する物やサービスのバスケットで、給料や年金は支払われ、それ以外の突発的な消費に関しては、そのたび手続きをして調整する。テクノロジーの21世紀だ、すこしも難しいとは思えない。


とはいえちょっと面倒なのは、物と物の交換の比率である。資源としての金属が不足し、それらを使った製品、例えばトランペットが、他の消費に比べて相対的に貴重になったとしよう。そのとき来月に減らされる米の量は、それまでよりも多くなければいけない。トランペットひとつを買うために必要だった米50kgは、55kgに増えてしまっている可能性があるのだ。もちろん、トランペットと米の関係だけでない。飲料水も、靴下も、キャバクラ2時間も、あらゆる消費の相対価格は、それらの互いの交換比率は、時々刻々と変化すると考えるのが自然だ。ドルと円、円とユーロ、ユーロとドルの関係のように、動き続ける為替の交換レート表が巨大化した姿を想像してみてほしい。もちろん我々は連中を、携帯端末を使って確認しながら、日々の消費生活を送る。面倒に思われるかもしれないが、なーに、すぐに慣れる。ボタンひとつでいつでも、トランペットの価格表だって、米表示から水表示に、また靴下表示に、切り替えることができるのだ。

マネーなき貸借

さて、こうしたマネーのない物々交換の世界でも、貸借と利息は存在するはずだ。今月食べ切れなかった米は、不足している人々に貸すことができる。彼らが食べちゃった米は返してもらえないが、似たような米を少しだけ多めに、来年返してもらえばよい。機会を提供するのだから、その費用として利息を要求するのは当然だし、そのとき自分にとっては、消費するための購買力を貯めておくことができて便利だ。「50kgの米を貸すから、来年55kgにして返してね」といった感じか。また「そうでなければ、靴下165セットでね」といったように、適切なレートで交換された飲料水や靴下で受け取ってもよい。


もしかすると、米に対して10%の利息を課すよりも、給料や年金として払われる標準的な消費のバスケットに対して、10%の利息を課す方が望ましいかもしれない。特に米に思い入れがなければ、普段よく消費する組み合わせに対して上乗せスプレッドを要求した方が、生活に対してはリスクが小さそうだ。米の相対価格は、他の消費に比べて、下落してしまうかもしれない。そうなれば、水や靴下やキャバクラ2時間に交換できる量は減ってしまう。それよりも、水も10%増し、靴下も10%増し、その他もすべて10%増しの組み合わせで、返してもらえた方がよさそうだ。物々交換が進化した世界では、そうした消費を組み合わせたポートフォリオと、これに「実質金利」として上乗せするスプレッドで、貸借が行なわれることになるだろう。


銀行預金として預け入れるものは、米でも水でも靴下でも、それらの組み合わせでも構わないだろうが、その利息は、両者が合意した消費バスケットに実質金利が上乗せされる。銀行が企業に対して貸し出すものは、米でも水でも靴下でも、それらの組み合わせでも構わないだろうが、その利息は、両者が合意した消費バスケットに実質金利が上乗せされる。それらの残高を確認しようと思うとき、もちろん端末のボタンひとつで、米による表示と、水による表示と、靴下による表示と、またはキャバクラ2時間による表示とを、切り替えることが可能だ。

金融政策は存在するか

この世界に、おそらく日銀は存在しない。銀行券が存在しないからだ。またこの世界に、デフレは存在しない。相対物価しか存在しないからだ。しかしもちろん、不況は存在するだろう。また日銀は存在しないが、しかし「金融政策」のようなものが存在する余地はあるように思う。


物々交換が進化した世界の金融政策とは、どんなものだろうか。簡単だ。実質金利を引き下げたいと思うとき、政府は、市中の銀行が貸し出すそれよりも低い水準で、米でも水でも靴下でも、じゃんじゃんと貸してやればよい。実質金利を引き上げたいと思うとき、政府は、市中の銀行が預かるそれよりも高い水準で、米でも水でも靴下でも、じゃんじゃんと預かってやればよい。誰だって、すこしでも安く貸してくれるところから借りたいし、すこしでも高く返してくれるところに預けたい。需要と供給で決まる実質金利の水準に、政府は*1「介入」することができる。


しかし忘れてはいけないのは、介入には原資が必要だということだ。銀行が普通に貸し出す実質金利よりも、政府が安く貸そうと思えば、そのための原資として、税金*2を突っ込まざるを得ない。このことが有権者の理解を得られるのかという問いは、とても大切だ。また銀行が普通に預かる実質金利よりも、政府が高く返そうとすれば、そのための原資として、税金を突っ込まざるを得ない。このことが有権者の理解を得られるのかという問いは、とても大切だ。


現在の我々は、あまり物々交換はせず、マネーを媒介手段として利用している。介入には原資が必要だという理屈は、マネーの導入によって、消し去ってしまうことができるだろうか。少なくとも僕には、そんなことは不可能に思われた。その面倒な議論を避けたとしても、しかし銀行券を誰も利用しない未来の世界は、すぐ目の前まで来ているようにも思う。利息がつかないのだから、手元の端末をシャリーンとかざせば買い物できる時代に、銀行券を持つ理由が僕らにはあまりない。そのとき同じように、やはり介入には原資と、有権者の理解が必要なはずだ。

*1:また日銀は、実は誰でも

*2:税「物」の方が正確か