「明日ね」の値段
「明日返すから、100円貸して?」
学校の帰り道には、チェリオやよっちゃんいかを買うための資金に限らず、既に読んでしまったジャンプや、今夜遊ぶためのファミコンのカセットから、ちょっとお母さんには見せられないようなアレまで、とにかく様々な貸借が発生していた。
「代わりに今度、○○子に言っといてやるから!」
違う。僕が欲しかった利息は、それじゃない。余計なお世話は、本当に勘弁して欲しい。失われたチャンスを、後になって買い戻すことはできない。にもかかわらず、思い出は永遠だ。人生は残虐だ。ともかく、メガホン型のスピーカーからドヴォルザークが流れる下校の時刻に、ほとんどあらゆる複雑な金融取引の原型は存在していたと、僕は考えている。
その最も基本的なコンポーネントが、金利だ。一宿一飯の恩義、出世払い、情けは人のためならず。時間を跨ぐ取引の値段は、様々な日本語で表現されてきた。運動方程式を正確に記述できなくても、リンゴは地面に落ちることを僕らはよく知っているように、店頭に表示されている金利の生む金額が正確にはわからなくても、預ける見返りを少しばかり貰えるだろうことを、僕らはよく知っている。
今日ここで書きたいのは、その金利の大きさは、よく考えてみると、二つの異なる要素によって構成されているということだ。もう一度最初の質問に戻ろう。「代わりに今度なんちゃら」でなく、今この場ですべてを精算してスッキリしたいとき、今日貸した100円を、明日いくらで返してほしいと感じるだろうか。
- A
- 「お願い、100円貸してほしいんです。電車賃がないんです!」
- B
- 「オイ兄ちゃん、ちょっと100円貸してくれよ。頼むよ、なあ?」
この両者だと、AよりもBの方が多めに返してほしいと、僕なら感じる。というかBだと、500円返してもらう約束だとしても割に合わないような気もするが、大雑把にいえば、返ってこなさそうなときほど、僕らは金利を要求する。じゃ先生が保証してくれたらどうだろう。
「ノグチ君、貸してあげて下さい。先生がちゃんと責任もつから。」
こうなれば実際ほとんど無リスクだが、このとき僕らは、100円返ってくれば満足するのだろうか。歴史と理屈は、ノーと言っている。「機会費用」という言葉があるが、待たされるとき、それだけで、その分を見返りを我々は要求するのだ。僕の青春の時間は、あの失われたチャンスは、二度と返ってこない。「明日ね」の値段は、1)待たされることと、2)返ってこないかもしれないこと、の二つから成り立っていることを覚えておいてもらえるなら、遠い昔の苦い経験*1の見返りとしては、十分だと自分に言い聞かせたい。
*1:フィクションです