肩たたき券のバブル崩壊

といっても、面白可笑しいエピソードの紹介ではなく、シンプルな例示に過ぎないのですが、誰もが子供の頃に発行した覚えがあるんじゃないかと。肩たたき券。実際のところ、誰もが発行したことのある有価証券てのは、さほど多くないはずで、頭数ベースのカバレッジでは、肩たたき券はおそらく圧倒的なそれのひとつなのではないかと。


で、そのうちの一部は、「ちょっとお買い物に行ってきてよ」的な、ほら一般に契約が明文化されてないのをいいことに、いまサラダ油切れちゃったのよ的な、いいでしょ別にお買い物でも的な、都合のよい解釈と使われ方をされたことがあるのではないか。または、本来それは母の日のギフトであったにもかかわらず、「お父さん疲れてるんだから、足揉んであげなさい」的な、そんな解釈と使われ方だって、一部のご家庭では存在したに違いない。とはいえ、兄弟姉妹の夏休みの宿題を手伝ってやった代わりに肩のたたき役を交代しろという必殺技は、あまり見たことはない。券の発行先はそのことを快く思わないだろうし、そもそも宿題は自分のためにやるものだ。


しようもない与太話で恐縮だが、とはいえ現代資本主義の構造だとか金融テクノロジーが起こす革命だとか、ハッタリかましてスピーチ料を取らんと山師が振り回すそんな話の内容ってのは実際のところ、せいぜい肩たたき券の発行や交換が示唆するところで大概カバーされてしまう。そう、こいつは意外に万能だ。


夏休みに熱中症のリスクもある中で、外で野球の試合をしてきた日の夕方、4打数ノーヒットで落ち込んだ日の夕方、正直いつもよりぐったりしている時に、「ねえ、この前の肩たたきよろしく」と言われたなら、詳細な条件もつけず安易に券を発行したことを彼は悔やむだろう。「こちらの気分が乗るときに」との一文を書き加えてさえいれば、「またにしてくれ」と主張することだってできたのである。ほら、約束はとても大切だ。


債券価格と長期金利を肌で理解するためには、それを「5年後に肩たたく券」だと思えばよい。5年後までに世界はどう変わるか、そして自分自身はどう変わるか、そういった変化は券の価値に影響を与えるだろう。株価や賃金、失業率を肌で理解するためには、それを「ずっと肩たたきするよ券」だと思えばよい。期限すら切られていない権利を評価するものは、何だろうか。


肩をたたいてもらう側にとって、あらゆる肩たたき券の嬉しさは時々刻々と変化する。肩をたたく側にとって、あらゆる肩たたき券の面倒さは時々刻々と変化する。もちろんそこに、「正しい」嬉しさや「正しい」面倒さなど存在しない。なぜならそれらは、本質的に評価性のものだ。いかなる種類の肩たたき券の価格が暴騰し、また暴落したからといって、僕にはそれを正当だとも不当だとも、評価することはできない。そこにあるのは、自分にとって高いか安いかだけだ。