東国原氏はアービトラージャーだが、裁定機会は消滅していない

ビートたけし氏に「助言」され、古賀氏は選対委員長を辞任し、東国原氏が自民党総裁候補として衆院選に出馬することはなくなったのだろう。少し残念だ。はじめに断っておくが、僕は東国原氏のファンではないし、彼が政治家として卓越した仕事ができるとも考えていない。仮に彼が首相になったとしても、そのこと自体はちっとも嬉しくない。どちらかといえば、おそらく不愉快だ。


僕には、彼がアービトラージャーに見える。利益機会を発見し追求する、アクティブな投機家に見える。今回の事の顛末を簡単にまとめるとすれば、彼はテレビに映されるタレントとして得た知名度を利用して、自身が望むところの名誉ある地位を得ようとした(ように見える)。極めて自然な行動だと思う。ぶっちゃけた話、知名度と好感度さえあれば、名誉ある地位を獲得するのは容易なのだろう。橋下弁護士横山ノック氏だって、あれだけの支持と票を得た。先のビートたけし氏やキムタク氏が手を挙げれば、国会議員や総理大臣になることなんて、馬鹿みたいに簡単に違いない。


衆愚政治の寂しさってのは、まさにこの点にあると思うのだが、とはいえ僕はこの寂しさを避ける方法を知らない。気持ちが悪いのは、彼が知名度を得たプロセスの方だ。もちろん、笑いを提供することで認知されるのは、大変なことなのだろうと思う。ビートたけし氏に弟子入りし、つらく苦しい修行を重ね、すこしずつテレビに映されるようになり、徐々に知名度を上げていく。ただ、そのプロセスは、被選挙権のようにオープンには開かれていない。利用できる電波は有限で、テレビに映される機会は貴重で、そしてタレントを選ぶ権利は、高い参入規制によって守られている。


ビートたけし氏は、空気を読んだ。それは賢明な判断だったと思う。彼は、彼自身が望めば総理大臣になる力すら持っている(と思う)が、その事実を世間に晒したくなかったのだ。裁定機会を太陽の下に引っ張り出してきて、「ほーら、マズいですよ皆さん」「日本のシステムってのは、こんなに脆弱ですよ」と、皆に知らしめることを避けた。理由は簡単だ。その裁定機会が消滅するとき、彼の既得権も減るからだ。


裁定機会が存在することは、システムが非効率である証拠だ。キムタク氏が自民党の総裁候補として手を挙げ、ぶっちぎりでトップ当選し、日本の総理大臣になればよいのにと真剣に思う。衆愚だって、あまりにもあまりな事態を目撃すれば考え、システムは効率化へと向かうだろう。