投資信託進化論

しばらく前の話だが、かつて行きつけた店に久しぶりに顔を出すと、もうずっと初夏の白い雲のように美しい女将が、ウチの大事なお客さんの話を聞いてやってほしいと言う。もちろん断る理由は見つからない。どうやら彼は、さほど僕と年齢は変わらなそうだが、それまで勤めていたバイサイドを辞めて、ヘッジファンドを始めるのだという。本人に頼まれれば、普段なら相談料をいただくケースにも該当するが、酒の席で、いや逢坂の関で細かいことは言わない。白い雲の笑顔が買えるのなら、安いものだ。


僕: 「それで何をされるのですか?」
彼: 「何でもやりますよ」


互いに投資戦略のつもりで話しているので、もちろん噛み合っている。が、しかし話が進まない。彼は日本で生まれ育った日本人に見える。一方で、金利屋の香りもしない。そこで、もう一度聞いてみる。


僕: 「まず日本株とかですか?」
彼: 「いえ何でも」


率直に言って、この時点で、すこし難しいと思わざるを得なかった。結論から言えば「何でもやる」は売りにならない。それに近いところにいた経験のある者なら誰でも知っていることだが、本当に「何でもやる」ファンドが実際には存在しないのは、投資戦略なんてものは本質的に無数存在する。あるいは運用者の立場から言えば、「何でもやる」は、事前に行動を列挙することを避けるために掲げる看板に他ならない。最初に繰り返し出てくるフレーズがヘッジでは、顧客に振り向いてもらうことは難しい。


枕が長くなってしまった。先日NHKで「投資で社会に貢献する」投資信託の紹介があった*1と、ツイッターで見かけていた。投資の消費性について書くブログが、そうした商品性そのものを否定する理由は特に見つからない一方で、相互の理解は大丈夫か、すこし不安になった。それが何をしていることになるのか、明示され、そして上手に合意されているだろうか。もったいぶるのはやめよう、無理があるに違いないと思った。


数多くの投資信託の目論見書を眺めるとき、それらの書きぶりの違いに驚く。が、保有者の事情に配慮されていると感心させられるものは、残念ながら決して多くない。それぞれの個人は、さまざまにチャレンジを抱え、さまざまに今後の未来について思い描きながら毎日を生きる。当然のことながら購入する投資信託は、それぞれの人生のバランスシート*2の一部に過ぎず、必然的に他のコンポーネントとの関係において、それらを評価せざるを得ない。ポートフォリオの概念は、投資信託の中だけにあるものではない。より上位の階層において組み合わせを探る文脈で「こっちでうまくやりますから」は、どうしても割り引かれる。


先のヘッジファンドの話と同じである。原油にかかる商売を営む者にとって、箱の先であれ、原油のロングは意味が異なってくる。従業員持株会に加入する大企業の社員にとって、箱の先であれ、大型のロングは意味が異なってくる。住宅ローンを固定で組む者にとって、箱の先であれ、国債のショートは意味が異なってくる。老後に海外への移住を検討する者にとって、箱の先であれ、ドルのショートは意味が異なってくる。以下同様。もちろん種類や方向だけでなく、時間の関数としてのリスクの大きさは、商品を評価する特徴として、まったく重要なポイントである。「貢献」投資は、いつどのように勝ち、そしてどのくらい負けるだろうか。


だからといって細かなアクションまでいちいち開示していては、そもそもコストが高かったり、あるいは先回りされるリスクが生じたり、チャンスを逃してしまう可能性があったり、面倒が多いことは百も承知である。何を示し、あるいは何を書かない*3といった段取りに、今日は踏み込まない。より大切なことは、我々は人生のバランスシートの中で、どのようにリスク資産のマネジメントを外注するのか、その姿を探る最中にあるという事実である。例えばスマートベータ*4なる商品の隆盛は、より具体的に銘柄選択のコンセプトを示す一方で、同時に手数料の水準を引き下げる方向に機能し、我々が望む姿のひとつを手元に近づけた。


淘汰を繰り返しながら、投資信託の姿そのものが、進化するプロセスの中にある。生き残るために、どうすればよいか。いつでもご相談承ります。