代表なくして課税なし

たしか現代社会という科目だったと思うが、高校のときに教えてくれた先生を、僕らは親しみを込めて勝手に、八っさんと呼んでいた。いつも満面の笑みで、クラスの誰を差別も区別もすることなく話しかけては、教科書には載っていない現代社会を、八っさんは教えてくれた。今になって考えてみると、八っさんは要するにツイッターの凍鹿先生みたいな、変わったおっさんだった。彼に影響を受けて、たしか学校の授業に枠はなかったと思うが、僕は勝手に倫理や政治経済を勉強した。高校のそれなんて、もちろんキーワードを並べるだけの薄っぺらい内容だが、それでも楽しかった。ゴンドラチェフの波も公開市場操作も、インチキ臭いとしか思えなかったし、ひとつひとつは真実のように見える偉人の決め台詞も、並べると矛盾だらけで、不思議に猥雑な魅力を感じた。


昨日の首相の会見の際にはツイッターを眺めていたのだが、WSJの敏腕記者から突然、見慣れない英語の台詞が大文字で飛び込んできた。一体何だろうと少し考えると、こんなにも長い時間を超えて、八っさんの声が突然耳に聴こえてきた。

"No taxation without representation"
「代表なくして課税なし」


正直に言えば、その内容については不安だったので検索した。八っさんに習ったのかどうかすら定かでない。しかし懐かしい感触は、すぐに極端な不快へと変わった。吐き気がするレベルだ。米国の独立戦争については、きっと僕だけでなく八っさんだって、それがトムソーヤーより古いってことくらいしか知らない。字面からスピリットを読み取るくらいがせいぜいだが、カネを出すことと口を出すこととはセットだという原則は、リスク資本主義の中心を貫く、21世紀に生きる僕らも直面し続ける、課題山盛りな背骨である。


然るに現政権が経済政策と称して実行してきたことは何か。我々の現在の財布に勝手に手を突っ込み、日銀に国債を買わせた。我々の将来の財布に勝手に手を突っ込み、年金に株式を買わせた。何がアベノミクスだ。毎日を普通に暮らす我々にハリボテばかりを高く掲げて、複雑な組織構成と山積みのドキュメントに隠して、クローニー資本主義を積み上げる。なあ首相、あんた自分が何に課税してるか、理解してるのか。見せかけの自由は、17歳の僕が意味もわからず一番嫌ったもののひとつだった。


その後の僕が理科系に進んだのは、世界が方程式のようなもので書かれている気がしたからだが、その一番外側の表現として、八っさんの話してくれる現代社会の有象無象に魅力を感じることには、何の矛盾もなかった。アメリカは遠かったが、コマ劇場から大久保病院、職安からラブホテル街、もうひとつの現代社会を、僕らは安いコピー品の楽器を担いで歩いた。学園祭のステージでは、精一杯格好つけて客席を見回すと、校舎の窓から大きく両手を振る八っさんが見えた。自由とテレキャスターは、今でも執拗に僕を追ってくる。