「物価の安定」を再定義する

何かと騒がしい外野の間だけでなく、先月の金融政策決定会合の議事要旨*1の中でも、その「目標」が示されたこともあってか、「物価の安定」について大いに議論が行われた様子が伺える。が、ゴチャゴチャしていて、率直に言って捉えどころがない。何を言っているのか、よくわからない。そもそも日銀法に定められた目的すら、議論の対象になってしまう現在の状況は、まさに混迷であって、ついでに言えば諸悪の根源であるようにも思われるので、思い切って僕が再定義してしまおう。えい。

中央銀行が財務の健全性を保ち、自身の信用リスクを最小化すること


どうだ、わかりやすいだろう。ただ、これがどのように物価と関係するのか、いまひとつピンと来ないという方も多いかもしれない。なので、例え話を考えてみた。すこしばかり、お付き合い下さい。新たに、もう一つ、我が国に中央銀行を設立しようという与太話である。


さて日銀法を改正して、新たに、もう一つ、我が国に中央銀行を設立する。「新日本銀行」と名付けよう。旧来の日本銀行は、区別のために「全日本銀行」と呼ぶことにする。必然的に、我々は日本国内で、二つの通貨を同時に用いることになる。それぞれ新日円と全日円と呼ぼう。どちらの円にも強制通用力は付与され、商店主としての我々は、どちらかを拒絶することはできない。もちろん両者を交換する取引は自由である。我々は、給料をどちらの円で受け取るか選び、どちらの円で預金するか選び、昼食をどちらの円で払うか選び、どちらの円を借りて設備投資するか選ぶ。一見面倒そうだが、なあに大したことはない。携帯電話がスマートな時代である。我々は最早タッチパネルに触れるだけで、為替を自在に取引することができる。新日円で受け取った給料のうち半分を全日円預金に回して、帰りに寄ったセブンイレブンでは全日円建てナナコで払い、住宅ローンは固定の新日円と変動の全日円を組み合わせて借りる。このくらいは朝飯前だ。


金融政策は、新日本銀行と全日本銀行が、それぞれ独自に判断して行う。例えば新日本銀行が、元気過ぎる首相の掛け声に乗って、預金でジャーンと調達してリスク資産を買いまくる一方で、全日本銀行は、決済と金利の安定を重要視して慎重な運営を行ったりする。どちらの円も、それまで同じように国内で偏ることなく使われていたとすると、それぞれの物価には、どんな変化が起きるだろうか。新日本銀行が財政ファイナンスを感じさせるほど、あるいは規律を失ったように感じさせるほど、新日円に対して生まれる微かな不安は、新日円建ての物価を(悪い意味で)上昇させ、同時に対全日円では売られて安くなるだろう。ちょっと前まで、新日円でも全日円でも同じ100円で売っていたパンは、新日円なら120円だけど全日円なら100円だよと、あるいは銀行では、120新日円と100全日円を交換するよと、そんな具合だ。このとき物価上昇率の差分は、新日本銀行と全日本銀行の(財務の意味での)信用リスクの差分を表現する。あるいは為替レートの変化も同様だ。どちらも同じように広く国内で使われていれば、個々の取引の需給が物価に与える影響に、両者の差はないはずだからだ。


ここで最初に戻ろう。新日円が起こすような物価高あるいは通貨安を極力排除することが、ここでは「物価の安定」と同義である。不安に起因する新日円建て給料の増加も、新日円建ての対外売り上げ増も、我々が実際に買うことのできるパンの量を増やさない。ベンチマークとしての全日円建て価格と比較してみれば、このことは、より一層明らかだ。新日本銀行が、自らの財務と信用についてコミットしないとき、新日円建ての預金も借金も、契約には不安と対処とを含まざるを得ず、ならば地に足の着いた全日円を日常的に使うことを、徐々に我々は好むだろう。もちろん残念ながら、我々はいま二つの通貨を用いておらず、それらを比較し選ぶことはできない。このように考えるとき、しかし独占ビジネスとしての「現在の」日本銀行が持つべき方針が見えてくる。少なくとも金融政策の文脈では、まず財務の健全性に注意を払うことだ。なぜなら円の使い手は、リスクを望んでいない。