経常赤字を考える

という何とも酔狂な会が、桜の膝元で週末に、飲み過ぎながら行われたわけだが、自分の守備範囲をギリギリ外れるようにも感じられたので、時間をかけて、根本から考え直してみた。すると、よく見るフローの恒等式は、特に何も言わないという当たり前の壁に行き着いてしまう。誰かが支払うとき、誰かが受け取るわけだが、なぜ支払ったのか、交換された物やサービスが、どんなふうに魅力的だったのか、それらは今後もつくられ続けるのか、そのために今後どんなふうに投資されるのか、といった問いに「資金繰り」は答えないからだ。


より具体的には、例えば所得収支の意味がさっぱりわからなかったのは、利益とタコ足配当は本質的に区別がつかない。クーポン収入が多いことは、その投資の収益や価値が大きいことを必ずしも意味しないし、配当支払いが小さいことは、その投資の収益や価値が小さいことを必ずしも意味しない。こいつを要するに、資本収支と切り分けることは、どうしたって不可能じゃないか。というわけで「我が国」という括りで、未来に向かって経済活動を見つめようとするとき、我々が今後何をつくり出すのか考えようとするとき、経常収支みたいな道具はほとんど無力だ。じゃ一体どんな道具ならいいってのさ。もちろん、つくってみた。

すこし面食らうかもしれないが、わかりやすいところから見ていきたい。左下の国内設備投資は、普通に思いつくようなそれだけでなく、道路やら災害対策やらのインフラも含めた資産の意味で、結局のところ将来に渡る生産の現在価値を評価すると考えていただいてもよい。そして人生のバランスシート*1のコンセプトにも似るのは、将来の消費について負債と思う点だ。あるいは考え方によっては、純資産かもしれないのは、資産としての生産力を拡大させることができたとき、そのことは将来の消費の拡大をサポートする。


そして「対外純資産」と呼ばれるものは、資産と負債とに分離して考えよう。例えば製造業が海外生産への移転を行えば、左下の国内設備投資から、左上の対外金融資産へとカテゴリを引っ越すことになるわけだが、そのこと自体は特にバランスの大きさを変化させない。あるいは消費する物やサービスについて、国内への投資を呼び込むことは、右上のΣ将来の消費から、右下の対外金融負債へとカテゴリを引っ越すことになるわけだが、そのこと自体は特にバランスの大きさを変化させない。そして生産に占める(輸出向け)と、消費に占める(輸入から)の差分は、将来に渡る貿易収支の積分に該当するわけだ。


そう、このバランスシートを時間で微分するとき、経常収支や資本収支の「ようなもの」が現れる。すべてのアイテムは、常に時間とともに変化するわけだが、試しに昨年のそれと今年のそれとの差分をとってみよう。昨年を起点に将来に渡る消費の現在価値と、今年を起点に将来に渡る消費の現在価値を差し引きすれば、まず一年間の消費が残る。そして設備投資も、昨年を起点に将来に渡る生産と、今年を起点に将来に渡る生産とを差し引きすれば、まず一年間の生産が残る。忘れてはいけないのが、来年以降の消費や生産の評価についても、一年の間には変化することだ。対外金融資産と対外金融負債も、一年の間にはそれぞれにサイズが変化するわけだが、これは一年間の生産や消費に伴って動いたフローの部分、つまり何チャラ収支に現われる部分と、未来の評価の変化が表現された部分とに分けられる。美しいと思われないだろうか。


国債が投資対象として魅力的か否かについて、経常収支は何も言わない。しかしながら例えば、米国が消費を続けながらも、借金を膨らませることができたのは、この枠組みから見れば、資産としての設備投資が生み出す未来について、投資家が魅力的だと評価したからだ。そう、ここでもモジリアニとミラーさ。資産だけがマターなのだ。日本国債が魅力的な投資対象であるためには、調達された資金が投じられ、今後つくり出されるものが、素敵であることが求められるのである。