国債か増税か

「復興費用は一時的」と言うが、実際には何年もかかるはずだろう。困っている人々を助けつつ、瓦礫を片付け、どんな町をつくりたいと思うのか、皆に聞き、考え、すこしずつ実行に移していく。そこでつくり出されるものが、世界中の消費者に様々な形で届けられ、働く人々は対価を受け取る。そんなチャレンジを促すことは、今日明日終わるような仕事でなく、じっくりと腰を据えて取り組む大きな計画に違いない。そのための資金のすべてを、いまこの瞬間に調達する必要があまりなさそうなことくらい、僕にでもわかる。簡単のために、今後10年間に渡って、毎年お金が出ていくと考えよう。要するに、そのすべてを前もって借金して用意し、10年かけて返すことと、その10年間を増税で賄うことと、大差があるとは考えにくい。


繰り延べは常に相対的な話で、より長期に渡って借金を続けることを想定するか否かが話を分ける。つまり最初から100年で借りるなり、でなければ10年で返さず借り換えるなり、するときに初めて「復興費用は一時的」になるわけだ。10年で返してしまうのなら、ちっとも繰り延べていない。実は増税の側でも同じことが言える。つまり、10年間だけ時限的に高い税率とするとき、初めて「復興費用は一時的」になるが、復興が「終わった」その先まで「財政再建のために」続けるのだとすれば、それは繰り延べとは言えない。


要するに、この議論は震災とは関係がない。政府の債務の残高を(半恒久的に)増やすことに対して、何ら問題ないと考える者は国債の発行を主張し、継続的に減らしていかなければ問題が生じると考える者は、(半恒久的な)増税を主張する。どちらかを必要以上に強く主張する者は、つまり津波乗りしている。実に不謹慎極まりない。