通貨発行益という名の現金税

打ち出の小槌など存在しないという宇宙を貫く法則は、札さえ刷れば何でも買えそうだという素朴な感覚と、一見矛盾するようにも思えるのだが、どっこい世界は美しい。どこにまやかしがあるのか、なるべく簡潔に示してみたいと思う。その過程で、通貨発行益なるものは税金とよく似ていること、そして遅くとも25世紀には、そんなものは消え去っているだろうことが、同時に明らかになるはずだ。

現金の素敵と失望

すくなくとも最近まで、現金は僕らの役に立ってきた。落ち着いた褐色のカウンターを柔らかく包むハロゲンの灯が、口数は少ないが仕事の確かなマスターに支払う帰り際の財布を照らすとき、そこから覗く一万円札達は常に隣の彼女を安心させた。もちろん、あまり馴染みのない相手との契約を素早く済ませる必要があるとき、どんな凄みやハッタリよりも、こいつはよい仕事をしてきたし、また大切なひとをタクシーに押し込んで、運ちゃんにホイと握らせるときも同じだ。なんてったって札は、簡単に運べて、誰もが信頼するし、相手に渡すこともできる。もちろん名前は書かれていない。とても便利で比類のない、力のある紙切れだ。
現金サイコー!と、叫びたくなる気持ちも湧き上がってこようものだが、しかしコイツは残念ながら万能でない。利息がつかないのだ。あなたの横に銀行員が、口元だけの笑顔で立っているのが見えないだろうか。「この低金利ですが、少しでも有利な運用をされませんか?」最近じゃ彼らは、なにやら難しそうな商品をも沢山ラインナップに揃えて、紙幣と戦う準備は万端のように見える。

だから日銀は利益が出る

つまり僕らが現金を持つとき、銀行預金と比べて、損をしていることになる。さて最初の宇宙の法則に戻れば、だとすれば反対側では、誰かが得をしているはずだ。それは一体誰なのだろうか?言うまでもなく、札を発行している日銀だ。僕らが一万円を差し出して、証拠に数字の書かれた紙切れ(一万円札のことだ)を受け取るとき、日銀は僕らの差し出した一万円で、同時に国債を買っている。そして言うまでもなく、国債には利息がついてくる。
こいつは凄い話だ。ほとんどの我々が、今も財布の中には札を入れているわけだが、その分だけ彼らは国債を買い、そのすべてに利息がついているのだ。一方で、日銀がその左手で受け取った利息は、右手から僕らに渡ってくることはない。彼らの腹の中にスッポリと入っている。その莫大な金額が。これが、一見すると打ち出の小槌にも思われる、金融政策の原資の正体である。要するに、日銀が「低金利で貸しますよ」という現在も行われている出血大サービスは、実は全然出血していない。だってそもそも、連中は我々の一万円札に対して、利息を払っていないのだから。こんなもの税金と同じじゃないか。要するに現金税だ。

決済のテクノロジーと不要な遠慮

ゴールドが通貨として活躍する古の世界を我々が卒業してからというもの、このシステムは長らく一応機能してきた。一応と書くのは、時折間違えて、一万円を受け取りもしないのに紙切れを大量コピーして配ってしまい、結果として社会が紙で溢れかえるような事態も、稀にではあったが起きたからだ。もちろん現在の日銀は、そんな愚かな間違いを決してしない。そして今、私見だが、しかしながら我々は、このシステムの根本を実は見誤っていたのではないかと、テクノロジーの発達によって、そのことに気付かざるを得ない状況に立たされているのではないかと、僕は考えている。というのも、さっき近所のコンビ二で缶コーヒーを買ったのだが、僕の前に並んでいたお姉さんは、シャリーンと音を立ててスマートに去っていった。ジャラジャラとお手玉をするような野暮な動作とは、無縁の粋だった。
考えてみると、以前から存在していた「後で振り込んどきます」的な手法は、銀行預金の利息をギリギリまで確保したまま、送金手数料という形でコストを見事に切り分けて見せる。テクノロジーの発達が決済の利便性を高め、これと同じことがより簡単にあちこちで実現するようになるのは、単に時間の問題としか思われないではないか。カード会社の営業のような言い分で恐縮だが、あらゆる支払いの場面で「これ使えますか?」と聞いてみればいい。我々は遠慮する必要はない。え、電子マネーには利息がつかない?今はそうかもしれませんね。でもね、皆が遠慮しないとき、JALマイレージカメラのさくらやポイントがそうであったように、競争社会は熾烈なサービス合戦を業者に強いるだろう。結果として、さまざまな特典はこれでもかと説明され、抽選で牛肉や家電が当たったり、専用ラウンジが使えたり、カードにキラキラ色がついたりして、巧妙に姿を変えたそれら「利息」の比較サイトだって、すぐに現れるだろう。そう、電子マネーの法的な整備をする方々に申し上げたいのは、重力を禁止したからといって、宙に浮くことはできないということだ。要するに利息は、つかざるを得ない。必ず。だって国債には利息がつくもの。

ゼロ金利とバヌアツの豚の牙

ツイッターで素敵な話を教えてもらったのだが、バヌアツの人たちは収入があると豚を買うそうだ。その牙が伸びると、高く売れるらしい。一定の速さで伸びて大きくなるだろう牙の売却価格を割り引いたものが、現在の豚の価格になるのなら、それは金利と豚の生活とに感応する債券のような性質を持っている。じつにシビれる。もちろん豚は、国のあちこちにいるのだろうし、おそらく別の、例えば農作物だって、同じようにリスクがありながらも常に成長している。それらを組み合わせたポートフォリオは、もちろん単独の豚よりも安定した成長をすることだろうし、バヌアツの人々はそのために常に工夫を続けているはずだ。
我々の住む日本でも、それぞれの豚の牙に成長を期待することは、とても自然なことのように思われる。何が言いたいかといえば、ゼロ金利で日銀が貸し出している現状なんて、どう考えてもおかしい。バブル云々は横に置いておいても、皆が日夜成長のために工夫をし、そして遠慮なく利息を要求するとき、ゼロ金利を継続することなど、どう考えても不可能だ。なぜなら牙は常に伸びる。


もちろん、そうして金利が上昇するほど、今とは違って、利息のつかない貨幣に我々は愛想を尽かすだろう。新しい世界の誕生だ。そのとき現金税は消えてなくなる。25世紀の日銀は苦しい。宇宙を貫く法則の中で、常に僕らは前進している。