「損切り」するな

損切り」と呼ばれる投資行動は、僕にはまったく理解できない。理解できないばかりか、もっといえば嫌いだ。というか普通に損だと思うよ、それ。ここでいう「損切り」とは、自分のとっている何らかのポジションに、一定以上の評価損が出たとき、それを手仕舞うことである。皆がこれをすることによって、何が起きるかを考えてみよう。


例えば、僕がWTI原油先物を買っているとする。仮に60ドルのときに買いを入れたとしよう。それが40ドルまで、つまり20ドルも下がってしまった。33%の下落だ。


(40-60) / 60 = -33%


もちろん買った時点では、上がるだろうと思っていたわけだが、あらかじめ「値段が2/3になっちゃったら、素直に負けを認めて損切りする」と決めていたので、ここで損失を「確定」することにする。被害がこれ以上拡大することを防ぐためだ。ん?ほら、こうやって例を書いただけで矛盾が出てきた。被害が拡大するのを防ぐことが目的なら、もっと合理的な判断があるんじゃ?


まいいや。細かい文句は後へ回して、ここでは「何が起きるか」の話を先へ進めることにしよう。「手仕舞う」とは、ここでは買いを解消すること、要するに売ることだ。60ドルのときに「安い」と判断して買ったものを、40ドルで売りに出すことだ。もちろんおそらく、60ドルだったときとは、様々な状況が変わっているかもしれない。世界の原油に対する需要は減ったかもしれないし、市場参加者の構成が変わってしまった可能性だってある。だとすれば当然、判断が変わったとしてもおかしくはない。しかしながらいずれにせよ、40ドルで原油先物を売りに出すことは、さらなる価格の下落圧力を生む。それは、ここまで下がってきた価格を、さらに押し下げる力になるだろう。


さて将来を見たとき、この判断の行く末には、2つの可能性がある。馬鹿みたいに当然のことだが、正しかったケースと、間違っていたケースだ。ここでは間違っていたケースを考えてみたい。つまり、その後価格が上昇するという想定だ。一旦下がった原油価格は、みるみる息を吹き返し、70ドルまで盛り返すとする。これはくやしい。だって60ドルのときの判断は、結果的に正しかったのに、自分で決めた妙ちくりんな「損切り」ルールのせいで、それを取り逃がしたばかりか、損まで確定させてしまった。おそらくその60ドルのときの判断、結果的に正しかった判断を、阻止しようとする圧力すら、作りだしてしまったろう。だって、40ドルのときに売りに出してしまったんだから。


さらに考えてみよう、皆がこれと同じことをしたらどうなるだろうか。考えるだけでもおそろしいのだが、実際にあることだから更におそろしい。本当のところ、「損切り」投資家の多い市場は、とても危ない。判断の内容にかかわらず、単に多数派が市場を動かしてしまうからだ。「相場とは少数派が多数派に変わる過程である」と言ったのは山本清治氏だが、少数だろうが多数だろうが大切なのは判断そのものである。波乗り多数派に振り回される生活には、常に皆うんざりしている。納豆やバナナが品切れるなんて、どう考えても馬鹿げているじゃないか。要するに、こういうマグロの回遊みたいな、何かあるとすぐ自分も追随するような連中が多い市場は、構造的に価格形成が不安定にならざるを得ない。ちょっと詳しい方の中には、「ファットテール」などという表現が好きな方もいるかもしれない。


自分の判断が正しいと確信していたとしても、多数派に押し戻され評価損が膨らんだとき、僕らは不安にならざるを得ない。「もっと高くていいはずなのに」、そう思っていたとしても、目の前の三角の付いた数字(要するに赤字)は膨らんでいくばかりだ。家族の顔がチラついてくることもあるかもしれない。そんなとき、「損切り」は僕らの心を癒してくれる。失敗を反省し、自らを顧みて懺悔することは、いつでもどんなときでも、無条件に正しいことのように思える。


バーカ。


そんなわけないじゃないか。いいかい、将来を見据えた、お前の最初の判断は正しかったんだぜ。途中でビビりさえしなけりゃ、お前は負けなかったんだ。どうしてあのとき、ブレーキを踏んじゃったんだ?もうちょっと客観的に表現するとすれば、彼は、最初の判断とその確信とを、ノイズと、自分でつくったルールによって翻すことになってしまった。もちろんこの文脈で、情報とノイズの区別など誰にもつかない。それが振り返った過去のことであってもだ。だとすれば、価格に「正しい」もへったくれもない、そこにあるのは単に取引の結果であって、要するにこんなもの、勝ったか負けたかである。とはいえ、この判断のプロセスの、何かが間違っているというのには、同意してもらえるだろうと思う。こんな奴を隣で見てたら、もどかしくて仕方ないはずだ。ちょっと待てと、落ち着けと、ひと声かけてやりたい。さて、一体どこがもどかしいんだろう?


そりゃ「損切り」だよ。自分でつくった変なルールだ。投資の判断は、未来に向かってするんじゃなかったのか?「上がると思った」から買ったんだろ?「下がると思った」から売るのならいいよ。そうじゃなくて「下がっちゃった」から売ったの?なんて情けない奴なんだ君は。そう、実は一行で済む話なのだが、投資判断てのは常に、未来に向かってすべきものだ。それ以外にあり得るわけがない。もちろん「下がった」ことによって未来の見通しが変わったのなら、それでいい。ただそのとき、「損切り」という表現はやめてほしいと思う。損だろうが益だろうが、過去ではなく未来を見据えて、僕らは行動をとるのだから。


損切り」が必要な度合い、「損切り」を欲しがる度合いは、実は投資家によって違う。ぶっちゃけた話、機関投資家は、投資判断としてのこれを特に必要としている。なぜなら彼らにとって、そこに属して作業するサラリーマンにとって、「怒られない」ことが重要だからだ。


「ノグチ君、今期のマイナスがこんなに膨らんでるのに、まだ判断を変えないのかね」
「私にはよくわからんが、情報が間違っていたんじゃないか?」


物事を「変えないこと」は一般に、ガンバリーマンには理解されにくい。「頑張っていること」が美徳だからだ。彼らの観点では、結果は常に努力の賜物である。そうでなかったとしても、「結果さえ出しゃいいんだろ」という無頼派な主張は一般に、結果が出ているときにしか聞いてもらえない。部長だって、専務からのプレッシャーを常に受けているわけだし、専務だって株主からのプレッシャーを常に受けている。いつの時代でも、無知な偉いひとを相手にするってのは、大変にやりにくいものだ。


こんなとき、反対側の立場に回れるとすれば、とても有利だ。投資そのものとはあまり関係のない理由で、最初の判断を根気よく継続できない投資家がいるとき、その逆の投資行動をとることによって、僕らは利益を生み出せる可能性がある。40ドルで原油を引き取ってやれば、70ドルまで戻したときの利益は大きい。より一般化しておこう。リスクを許容できる期間は投資家によって異なるが、途中で心が折れさえしなければ、それは長ければ長いほど有利である。判断が時々刻々と行われていれば、短いスパンの判断は常に、長いスパンの判断に含まれている。


2008年に原油価格が100ドルを突破したとき、当時の経済産業事務次官は、「ファンダメンタルズからすれば60ドルから70ドルくらいが妥当なところだ」と発言した。立場の問題もあるだろうが、とはいえ彼は実際に「売る」行動は取らなかった。投資家から見れば、彼はキャンキャン吼えるだけの負け犬だった。しかしながら結果からいえば、あのとき売っていれば、原油価格の下げ圧力になっただけでなく、ボロ儲けでもあったはずだった。心の折れない、原油が高すぎると思う気持ちは、利益を生み出したはずだったのだ。


というわけで、常に未来を向け、未来以外のことを理由に心を折るな、という至極シンプルな話でありました。


蛇足ながら、「損切り」に似た、合理的な投資行動があるとすれば、それは「リスクの調整」になるのだろうと思う。損失が自分全体の余裕に影響を与えるほど大きいとき、とっているリスクの大きさを調整する必要が出てくる場合だ。もちろん、こんなとき損失を生んだポジションだけを整理することは合理的でない。その時点から将来に向かって考えたポートフォリオは、構成比率をそのままに、単に全体を小さくすればよい。このときポジションの縮小は、特定のそれでなく、ほとんどすべてのリスクに対して起こるはずである。


それはもちろん市場の全体に波及する。恐慌とは、つまりそういうことだ。皆があらゆるリスクを許容できなくなることだ。