金融政策はどのように効果がないか

安倍総裁の話ばかりで恐縮だが、彼の突飛な主張に市場が反応したことに対して、本人も含めて、ポジティブに考えている方々がいるようだが、他方で当ブログでは、これも含めた「非伝統的な」アクションだけでなく、そもそも金融政策など、いずれ失われざるを得ないので、さっさとやめてしまえという立場をとる。両者がどのような関係にあるのか、今日は簡単に書いてみたい。一言で金融政策といっても、その意味するところが昨今では多岐に渡るが、まず短期金利への介入について説明し、その後に「非伝統的な」金融政策へと拡張しよう。


短期金利への介入」が何を意味するのか、よくわからないかもしれない。そもそも短期資金の需要と供給が折り合う際に決まる価格が、中央銀行を必要とする理由はない。その水準が例えば2%程度のとき、「ウチなら1%で貸すよ(誘導目標)」と巨大な親分が隣でバーゲンセールを始めれば、誰もがそちらに注目するわけで、競合としての僕らも同じ値段を提示せざるを得ない。これが狭義の金融政策である。現状では、短期金融市場において中央銀行は支配的で、こうした安売りが一切存在しない状況を、プロフェッショナルの方ほど想像しにくいかもしれないが、しかし連中が極力その存在感を消すように毎日を動くことをイメージいただければ、なんとなく近づくかもしれない。


借りて工場をつくろうという経営者や、借りてパーッと使っちゃおうという消費者にとっては、低利に越したことはない。そうしたバーゲンセールは嬉しい。だからといって狭義の金融政策をじゃんじゃん行うのが望ましいのかといえば、そう簡単な話にはならないのは、まず貸し手は嬉しくない。隣の安売りがいなければ2%で貸せたはずが、1%に引かざるを得なかった分だけ、(中央銀行の競合としての)僕らが使えるはずだったカネは減ることになる。その分だけ預金が増えないわけだ。よく考えてみれば当然のことだが、つまり短期金利への介入は、貸し手から借り手への移転を意味する。そして移転が促すのは、それがなければ実行しなかったであろう投資や消費である。これを「バブル」と定義してもよいと当ブログでは考えるわけだが、もちろんちっとも喜ばしくないのは、プロセスの全体を考えれば「あまり要らない」ものに資源を費やすことになる。そのツケは必ず払う破目に陥る。


こうした金融政策の「効果」について、それらしい実証研究を見かけることもあるが、決して簡単なものではあり得ないのは、歴史はひとつしかない。(中央銀行の競合としての)僕らの財布から搾り取って、あまり要らない投資や消費を促し、仲介する山師には餌を与え、長崎オランダ村はやっぱり要らなかったねと、そのカネで何が買えたかを考えながら、いそいそと撤収する。そうした一連のプロセスのすべてが「存在しなかった」場合と比べることは、さもなくば何が起こっていたかを考えることは、本質的に不可能だ。


さて現在の短期金利は、ほぼゼロの水準に張り付いている。「介入」のない状態でもゼロなのか、それとも放っておけば高めの金利で折り合うのは、よくわからないが、ともあれ「これ以上は下げられない」ところにある。そうした中で、世界中の中央銀行が探る「非伝統的な」政策の多くは、金利を借り手に移転するだけでなく、リスクを貸し手に移転しようとする暴挙にも僕には見える。「国民の預金を使えばいいじゃん」という台詞にも僕には聞こえる。例えば日銀引き受けは、財政のリスクを日銀に押しつけようとするものだが、そうなれば僕らは、財布の中から日銀への「貸し」を幾分減らして、株やドルに振り向ける。自然な防御だ。そうして起きた一時的な株高や円安が、我々の全体にとって素敵なことなのか、この数日の動きだけを取り出して評価することが全く無意味なのは、自明だろう。