中央銀行が「特別な存在」であり続けることは難しい

バランスシートの規模を示す「金額」だけを振りかざして緩和効果が発揮されるのか、謎である。

高橋洋一氏の日本の解き方「日銀の説明たれ流す報道はアテにならず」がアテにならない件 | 50+(フィフティプラス)
http://fiftyplus.jp/2012/07/14/tokiwabashi/


高橋洋一氏の本を読んだことはないが、彼は日銀バランスシートの規模が物価予想にも為替にもマターだと繰り返し述べている。資産側で受け取る利息を根拠にしていたように思うが、そうして比較的ミクロな基礎に突っ込む点、あるいは市中の銀行預金に直接には触れない流儀も含めて、彼の議論はお世辞にも多数派とは言えない。一方で皆さん御存知のように、当ブログの立場も極端に少数派で、もちろん洋一氏と方向は逆なのだが、これまで似たようなトピックを扱った記事もたくさん書いてきた。メカニズムに触れたい気質で、しかし、つい読みにくいものになってしまう。


付利された当座預金は「マネタリーベース」に数えられるべきか
http://d.hatena.ne.jp/equilibrista/20110108/p1

バランスシートで考えれば、量的緩和待望論の馬鹿馬鹿しさが分かる
http://d.hatena.ne.jp/equilibrista/20120301/p1


これらで表現しようと試みていた内容は、角度を変えれば今日のタイトルで、中央銀行が「特別な存在」であり続けることは難しい。


この数十年を振り返ってみていただければ、実感できるかもしれない。まず高額の現金を持ち歩く機会が減り、最近では少額の現金を持ち歩く機会も減った。銀行振込の手間は軽くなり、クレジットカードは普及し、ATMの数は激増し、電子マネーは日々生まれている。見方を変えれば日本銀行券は、これらの新しい「マネー」に、すこしずつ食い込まれている。もちろん奴は、まだまだ強力だ。クレジットカードが使えない店も、電子マネーが使えないサービスも依然として多いわけだが、一方で日本銀行券が使えない場面は存在してはならないと、法律で支援されていたり*1する。また、悪い連中が例外なく日本銀行券の大ファンなのは、足がつきにくい。


銀行が熾烈な利息の競争に晒されるほど、カードやATMが熾烈な手数料の競争に晒されるほど、電子マネーが熾烈なポイント付与競争に晒されるほど、利用者にとって利便性は高まり、購買力は手元に残される。それらの競争に日本銀行券が巻き込まれ、我々が徐々に使わなくなるにつれ、あるいは新しいマネーと同様に、利息や特典を我々に返し始めるにつれ、いずれにしても中央銀行は「特別な存在」でなくなっていく。おそらく既に、なくなりつつある。時計の針が早く進まないかなと、僕はいつも願ってる。