市場は正しいか

市場は正しいかとか、株式市場は効率的かだとか、そういった問いに僕はあまり興味がない。ある程度効率的で、ある程度非効率に、はじめから決まっている*1じゃないか。しかし残念ながら僕らは、その「程度」を測る物差しを持っていない。どのくらい正しいかは、実際のところよくわからない。


The Becker-Posner Blog: Is the Stock Market an "Efficient" Market?
http://www.becker-posner-blog.com/archives/2009/04/is_the_stock_ma.html


非効率とは要するに、「安すぎる」ものが売られていたり、「高すぎる」ものが買われていることだ。たぶん実際にそういう「すぎる」は、あちこちにたくさん転がっているのだが、誰にとって、どのくらい「すぎる」のかは、どうやっても不明瞭にならざるを得ない。当たり前の話だ。一体どこの誰が、マドンナの新譜の値段を評価できるというのだろう。


考えてみると、その「すぎる」が不明瞭であることは、必然的道理だという気がしてくる。どのくらい「すぎる」のかいつも明瞭なら、辿るべき道はスポットライトで明るく照らされていて、あっという間に効率のゴールに到達するはずだからだ。そんなの矛盾している。我々は常に、わからないから頑張るのだ。なんだか禅問答のようになってしまったが、とにかく安すぎたり高すぎたり、そういうものが存在するだろうことは誰の目にも明らかであるのに、しかし残念ながらそれはまったく個別具体的でない。


とはいえ効率を向上させることそのものは、実はとても簡単だ。努力する方向は、いつでも非常に明快なのである。「安すぎる」ものを買って、「高すぎる」ものを売ればよい。そのとき同時に、もし判断が正しければ、結果的には儲かってしまう。なんともプチ嬉しい。自分でやるのが面倒なら、代行業だってたくさん存在している。プロの運用屋と呼ばれる人たちがそれだ。


実測は難しいのだが、だとすれば我々がどのくらいプロの仕事に期待をするのか、そういった「すぎる」を選別するリスク*2を、我々がどの程度負担するのかは、効率の物差しとなるかもしれない。もちろん、その期待や負担が大きいほど、おそらく市場は非効率なのだ。非効率と思うからこそ、我々は連中に期待する。とはいえ「市場は正しくない」ことを糾弾する人々の多くは、高い手数料を取って全力で選別を代行するプロの運用屋を同時に嫌っていたりするから、実に不思議だ。


そういうナーバスな連中が大好きな「100年に一度の危機」を巡る問題、要するにバブルって何だ問題を考えるとき、実はこの選別への期待、特にその代行プロへの依頼に、ちょっとした罠があるのはしかし事実である。代行を依頼した我々は、彼らの仕事を評価するのに、ついせっかちになってしまうのだ。


四半期だとか半年だとか、待っても一年だとか、そういうスパンで結果を出してもらいたいと、我々はつい期待してしまう。人生は短い。部長の気も短い。もちろん期待され仕事を請け負う方だって、そういうスパンで結果を出したいと頑張る。人間は期待に応えたいものだ。するとどうだろう、一方で、バブルが数年間にわたって続くことがあるなんてのは、誰でも知っていることだが、そういう長いスパンの、おっとりした非効率は、代行屋はあまり追いかけたいとは思わなくなってしまう。これは構造的な問題である。


水族館に足を運んでみれば、誰でも肌で確信することができると思うのだが、投資家は皆マグロだ。一緒に泳ぐことは、それはそれは楽しくて、そのとき恐いものなど何もない。そして先頭の誰かがクルリと向きを変えれば、思わず反射的にそれについていく。祭りの喧嘩は、いつもそうやって境内を練り歩くとき発生していた。ひとりひとり独自の判断なんて、あるようでなかった。バブルや危機は、一般にこうして生み出されるものだ。


言い換えればそこには、大きなチャンスが誰の手も付かずに眠っている。そう、何年ものスパンの「安すぎる」「高すぎる」である。これを追いかけるひとは、とても少ない。僕にはそれは、期待が小さいというよりも、単に誰もが忘れているように思えて仕方ない。皆がもうすこし、マグロでなくなるとき、人々が知識と判断を持って、長いスパンの「すぎる」を放っておかないとき、バブルと危機は両方とも減るだろう。もちろん、そのとき貢献した者には、プチ嬉しい結果も同時についてくるはずだ。


え、お前?買ってますよ。ビクビクしながら。自信ないもの。

*1:「あの娘は完璧」か?

*2:だって間違えるかもしれないぜ