実質成長の世界

コーウェンは大停滞*1を吹いているようだが、僕らが総じて足踏みするなんて、簡単に可能なはずもないのは、ちょっと周囲を見渡してみれば明らかなことだ。皆それぞれに、目の前のチャレンジに力を発揮してるじゃないか。あるいは一方で「失われた20年」の後半は、乱暴に要約するなら、特に失われてはいなかったと白川総裁*2クルーグマン*3が最近になって口を揃えたことも、自分には似た話に思われる。我々はいつでも、おそらくコンスタントに、前進を続けている。


いまコーヒーを飲みながら記事を書いているのだが、例えば豆の流通やら販売にかかる明らかな無駄を排除したり、あるいは技術によって効率化したり、することによって価格が下がるとき、僕らはコーヒーをより安く飲むことができる。その分だけ、他の消費や投資に回すことができる。実質成長である。他方で、価格競争に晒された状況下で、コーヒー会社員としての僕の給料が下がる形で、あるいは誰かが失業する形で、コーヒーの安売りが実現したとしよう。このとき実質成長していない。その分だけ、他の消費や投資に回すことができないからだ。


もちろん、両者はおそらく常に混在していて、明確に分別することは不可能だろう。売り手と買い手が綱引きを継続的に行う中で、価格の下落が実現すれば一般に、その一部は成長であって、残りの一部は成長でない。このことは、また例えば、あらたな付加価値(例えばフェアな取引ストーリー)を与えられたコーヒーの販売価格が上昇するとき、その一部はそのことによって、生産者や販売者の消費や投資が増える成長であって、残りの一部は単に「期待に働きかけ」られた、つまり他の消費や投資の価格も上昇しているフェイントであることにも似ている。


別の話だが、こうしてインターネットに記事を書いたり、その内容に関連して呟き、皆さんと見解を交換することは、とても楽しくて刺激的で、自分の生活をすっかり変えてしまった。すこし下の方にスクロールいただいてバナー広告をクリックすれば、多少のお金が動くのか知らないが、その一回は微々たる額だろうことは容易に想像がつくし、そのことに僕自身はあまり興味がない。20年前には想像もつかなかった素敵だが、もちろん新たに生み出された最高は、他にも馬鹿みたいに沢山あって枚挙に暇がない。若くて話がピンと来ない皆さんは、お近くの年輩の方に聞いてみるとよいと思う。世の中はよくなりましたか、昔に戻りたいですかと。なるべく具体的に。


人生いろいろだ。況してや時代は変わり続ける。我々は、「同じでよいから」安いものを望むときもあれば、必ずしも金額では計れないものを望むときもある。経済成長とは結局のところ、我々がほしいと望むものを、我々がつくり出すことだ。いつだってチャレンジを続けているのだから、簡単に停滞などできるはずもない。振り返って覗く眼鏡のピントが外れているだけだ。

*1:

大停滞

大停滞

*2:http://www.boj.or.jp/announcements/press/koen_2012/ko120111a.htm

*3:http://krugman.blogs.nytimes.com/2012/01/10/more-on-japan-wonkish/